前回のブログでは、多様性を尊重するというとき、日本人は「いろいろな人がいるんだから」と相手の言い方や行動になじめなくてもガマンする傾向があることにふれました。
多様性が今のように広まった背景には、
今の社会の特徴であるプライバタイゼーション(privatization:「個人化」)をあげることができます。
これは古くから日本の地域社会でみられた濃いつながりの人間関係の村落共同体とは対になるものです。
個人の関心がグループやグループ内の人ではなく、自分に向く現象です。
1980年代になり、製品やものが豊かにあふれるようになり、所有の単位がグループではなく個人になってきました。
たとえば、農業なら共同で農機具をもち、順番で個人が使い回すやりかたから、個人がそれぞれ農機具をもち、自分の農地にだけ使うようになりました。
高度経済成長を通して、みんなが豊かになり、さまざまなものを個人でもてるようになったのでした。
昭和の頃には、家族が一堂に家の同じ場所に集うことが多かったのに、子ども部屋や書斎のような個室をもつことが珍しくなくなりました。
このように、暮らしや生活が個人化してきたのでした。
また、1990年代の頃から、個性を尊重し、自己選択や個人の自由を尊重する考えや行動様式が、自己実現という言葉とともに、重んじられるようにもなりました。
これがプライバタイゼーションを加速したといえるでしょう。
そして今の時代では、人はいろいろであり、個人として自由であり、それぞれの人を尊重しようという価値観が多様性を下支えしているのです。
ところが、人はいろいろ、それぞれという価値観が浸透し出したいまの日本社会では、相手と考えや意見がちがっても、反論することを避け、「ガマン」にまわります。
それが進むと、わたしはガマンしているのに、あの人はなぜ勝手なことをするのだ。許せない!となるのです。
新型コロナウイルスの感染症に見舞われているこの2年間で、私たちは周囲がどう思うか、自分がどう思われるかを気にすることが増えたと思います。
つまり、「多様性(=人はいろいろ)は尊重されなければならない」と言いながら、人びとの動きや心理は、自分が突出しないように、周りから浮かないように気をつかう傾向が、今まで以上に強くなりました。
そして、多様性尊重だからと、他者に深く関わりをもつことを避けるのです。
しかし、言いたいことを言えず、ガマンを重ねる人間関係は、寂しいものです。なんとも言えない乾燥した寂しさが、いまのコミュニケーションにはついてまわるのです。
そこで、大人はこどもと話してみる。子どもは大人が失った無垢な、真っ直ぐな心をもっています。
また、さまざまな世代の人に声をかけます。その人たちのつぶやきに耳を傾けます。
そうすると、お互いの考えを整理できることもあります。他者の思いに触れることができます。
どちらがいいとか悪いとかではないのです。どちらにもいい面と悪い面がある。
この真実に立ち戻り、相手の考え方や文化には少しなじめないことがあるが、とりあえずときにはいっしょに過ごしてみよう。
このようなきつくない、強すぎない、ゆるやかにつながる人間関係を保っていってはどうでしょうか。
このゆるやかにつながるガマンやストレスをためない人間へのかかわりが、多様性を尊重することになるのです。
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