私が、箕面市内の各中学校を訪問して「いい学校」だと思う学校がいくつかあります。
「いい学校」というのは、管理職・校内中堅教職員・若手教職員が同じ方向を向いている学校であると感じます。
さらに、保護者も地域も、また教育委員会もその学校をサポートする同じ方向を向いているなら、さらに「いい学校」であると考えます。
そのような学校では、子ども一人ひとりの学習を大切にして、クラス・学校全体で成長・発展していく傾向があります。
だから当然ながら、生徒へのかかわりがプラスのかかわり(たし算)になります。
学校の進む方向が共通理解されているので、学級担任も、教科担任も、校長・(副校長)・教頭も、保護者・地域の人も、教育委員会も、おたがいに連携し合い教育活動を進めていくことになります。
ところが、その一方で、一見全体的に「整った学校」を目指し、「いい生徒」を育てることを重視している学校も多いものです。
そうなると、「いい生徒」に照らして子どもを評価することになります。
そして生徒へのかかわりがマイナスのアプローチ(引き算)になりがちです。
それなのに、とかく学校は「整った学校」づくりに傾く傾向があります。それはなぜでしょうか。
「たし算の学校」は、生徒一人ひとりの変化や成長をみます。
その場合、「この生徒は他の生徒と比べて、今はこの位置だ」といった明確な「ものさし」がないのです。
そこから頼りなさ、不安感を教職員が感じてしまうからでないかと考えます。
そもそも、教師の指導や授業観は、自分自身が学んできた経験に大きく影響を受けます。
今までの授業スタイルを踏襲して、日々授業を探求していかないような教師には、新しい授業を実践する余裕がありません。
いま、学校は授業を探求する教師グループと、同じ授業を踏襲する二つに二極化しているように思われます。
では、生徒一人ひとりの変化や成長に目を向けることができる学校(たし算の学校)になるにはどうしたらいいのでしょうか。
それは、まず管理職がどれだけ自分の言葉で、生徒Aのことが語れるかという点に始まります。
ついで、学級担任や教職員が生徒Aのことを、自分の言葉で語ることができるかです。
毎日の授業の中で、学校生活の中で、生徒Bとのかかわりあいの中で、学級全体との関係で生徒Aの姿を語れることです。
「1学期にはAはこれができなかったけど、3学期には自分でできるようになった」
「そういえば、2学期には、Aに対して、Bがこんなかかわりをしていた」
「また、クラスの中でも、他の子がAに話しかける場面が増えた。Aの表情が明るくなってきた」。
このように、個々の生徒の様子やクラスの様子を価値づけていくことで、Aの成長が見えてきます。
その点で、教育とは全員にあてはまる活動ということより、生徒個人のテーマについてどうであったかという視点が大きいと言えます。
つまり教育では、個別の課題を問題にすることが多いのです。
生徒Aについて、1学期当初は思いつかなかった「化学変化」を語ることができる教職員の中で、生徒は成長します。
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