私が小学生の頃、学校行事として「写生会」がありました。児童が郊外へ出て、深まった秋の風景を画板につけた画用紙に絵の具で写生するというものでした。
どの場所を選ぶかは子どもが自由に決めました。
ある子はお寺にそびえ立つ、葉が黄色に染まった銀杏の木とお寺を写生しました。
また、ある子は遠くから眺めた自分の学校を写生していました。
わたしは、茶色や赤色、黄色に染まった里山を描くことにきめました。
なぜ、それを選んだのか。
初夏や夏には青々としていた山々(「山したたる」といいます)が、さまざまな色をつける(「山装う」といいます)ようすが、ほんとうにきれいさと見事さに惹きつけられ、ぜひそれを絵にしてみたいと思ったのでした。
ただし、そこは絵を描く卓越した技能が自分に備わっていないため、わたしが見ているもの描かれたものの間には大きな隔たりを自ら感じていました。
ただし、私が見ているものは、まぎれもなく生まれ育ったふるさとの息をのむような美しい里山であり、私の体をつかって表現する絵との間の隙間を埋めることは、子ども心にも簡単でないことも感じていました。
そして、同時にその隙間は埋めることができずいまに至っています。
そして、いまや「美しいいう思い・心情に意味がある』とわりきり、過ぎていった長い年月を受け止め、ふるさとに生きることを続けています。
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