わたしは中学生の社会の時間に、はじめて「核家族」という言葉を習いました。
父親と母親だけまたは父親と母親とその子ども(未婚)で構成されるのが核家族です。
1950年代からぼちぼち増えはじめ、日本の高度経済成長期に著しく広がりました。
その世帯では、家族としての意識が強く打ち出され、「○○家」としてどうあるべきかという価値観が家族内で幅をきかせていました。
ある意味で、個の意識が家族の価値観に埋没していました
ところが半世紀の間に、独居世帯が増え今にいたっています。
もう核家族も成立しにくくなってきています。
それとともに、家族のあり方が移り変わり、「個人化」(=privatization プライバタイゼーション)が進行してきて、個人の意識が強くなってきました。
家族をつくる成員の価値観もまちまちになってきています。
親が「せめて孫がほしい」と願っても、子ども世代が「子どもをもつとたいへんだから」と言う場合もあります。
この意識が家族という集団に埋没していた頃は、「そうだね、こどもを産むよ」となっていたのですが、そんな時代でもありません。
ただそうなると、人間というものは、かえって家族を求める反動も出てくるように思います。これもまた自然の流れかもしれません。
人間関係の煩わしさから離れてしまうと、人は不安になります。
人に受け入れてもらえる。人と共感しあえる積み重ねは安心や喜びをもたらします。
家族はいらないと思って生きてきたけど、老齢期を前にすると、やはり不安が襲ってくることもあるでしょう。
そこで、大切なのは社会へつながる「窓」を開けておくことでしょう。
困ったとき、苦しいときには地域や社会に「助けて」と声をあげることができるようにしておくことでしょう。
そして、それに応える「ケアする人」の基本的な姿勢は、ひとつのきまったカタチがあるのではなく、家族の姿の変化に寄り添っていくことでしょう。
個人が人間関係を絶やさずにいるためには、深い入り込みではない、社会や地域の活動へのかかわりを保つことです。
あの人といつもいっしょではないけれど、いざというときにはこの活動のつながりで助けたり、助けてくれる関係をたもっている。
このような人と人のつながりが、いま流の人間関係なのだと思います。
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