緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

真夏の浜離宮庭園:汐留シオサイトのビル群を眺めながら汐入の池へ

2012年09月02日 09時35分47秒 | 城南・港区全域


浜離宮三山の一つである「新樋の口山」を抜けて「汐入の池」のあるエリアへ向かいます。散策道の周囲は芝生がきれいに整備されていて、松の木が植えられています。まるで皇居前広場の中を歩いている感じです。




東京湾の海の香りが漂っている新樋の口山から汐入の池方面を撮影してみました。浜離宮庭園の中は意外と地形の起伏が激しく、坂が多く点在しています。そしてこの山の上から「横堀」など庭園内の水面なども見渡すことができます。




しばらく歩くと「樋の口山」という小高い丘が散策道の脇にありました。丘の斜面は芝生に覆われていて、所々に松の木が植えられていました。高さは6メートル前後であったと思います。




浜離宮庭園の敷地の東京湾側にある「横堀」に沿って散策していきます。内堀や横堀など、浜離宮庭園の敷地内には戦国時代から江戸時代にかけての築城技術の地形が数多く存在しています。




横堀の水面と、鬱蒼としている庭園内の緑の奥に「汐留シオサイト」の高層ビル群が見えました。1990年代のあの場所は更地が広がっているだけでしたが、90年代の後半になってようやく再開発工事が始まり、2000年代の前半くらいに高層ビルが次々と竣工しました。




汐留の地は江戸時代以前は海辺の湿地帯でしたが、江戸幕府の開幕後徳川家康が発令し、三代将軍家光の代に至るまで続いた「天下普請」(諸大名の財力を用いた、奉仕による城下町建設事業)により汐留の埋立地が完成しました。その結果、汐留は周辺の新橋・銀座・築地などと並び、大名屋敷を有する武家屋敷街となります。




近年の東京都心部における再開発事業がかつての大名屋敷跡地や武家屋敷跡地において実施されることが多いのは、広大な土地を一気に活用することができるからなのでしょう。




東京湾側の敷地と、中島とを結ぶ「御手伝い橋」の脇を通り抜けていきます。




その後明治新政府によって屋敷は接収され、1872年(明治5年)に官営東海道本線が横浜との間に開設された際、起点となる新橋駅がこの汐留に建設され、東京の玄関として華やかで活気のある街となります。しかし、1914年(大正3年)に中央停車場(東京駅)が完成し、東海道本線の起点が新橋駅から東京駅に変更されたため、新橋駅は貨物専用駅に変更されます。それからの汐留は、小運送店の集まる貨物ターミナルとして栄えることになります。




浜離宮庭園の南側は、汐留側を挟んで「ニューピア竹芝」の高層ビル群や竹芝埠頭、JR東日本が運営している「四季劇場」などが立っています。浜離宮の敷地から竹芝方面にダイレクトにアクセスすることは不可能で、一度敷地内から出て、海岸通り経由で向かうことになります。




1986年(昭和61年)に汐留貨物駅が廃止されます。その後しばらくの間、31ヘクタールにもおよぶ複数の地権者からなる広大な空き地が手付かずのまま残っていたが、1995年(平成7年)になってようやく、東京都の都市基盤整備と民間のプロジェクトにより再開発が始まりました。




汐留シオサイトの高層ビル群の中では比較的早い時期の2002年(平成14年)11月に開業した「電通本社ビル」です(右)。築地や銀座、聖路加ガーデンに分散していた本社機能を集約するべく、電通は1997年に国鉄清算事業団が実施した汐留貨物駅跡地の公開入札に応募します。2位の香港の企業と僅差で落札しました。1999年秋に着工、約3年の歳月をかけて完成しました。




汐留シオサイトの高層ビル群はほとんどがオフィスビルですが、タワーマンションも建設されています。浜離宮庭園の西側にそびえ立つ2棟の高層タワーマンションは「東京ツインパークス」です。




東京湾から流れ込んでいる海水の庭園「汐入の池」にやってきました。ここからも汐留シオサイトの高層ビル群がよくみわたすことができます。池の真ん中にあるのは「中島の御茶屋」です。




高層ビル群の中でも純白に光り輝いている壁面を持つのが「コンラッド東京」が高層階に入居している「東京汐留ビルディング」です。ビル自体が開業したのは2005年(平成17年)2月と比較的新しい高層ビルです。




この次は汐入の池の中を散策していきます。

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