共産党 ②
2016.09/21 (Wed)
前回の続きです。いきなり転載です。
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「日本共産党の怖さ一から教えます」 梅澤昇平
《けっして謝りません》
共産党はほかの政党と違って、けっして謝ったり党首が責任を取ってやめたりしません。あるのは、あくまで個人責任や「自己批判」を書かされることです。
一九五〇年代の武装闘争も共産党自体がやったのですが、当時の一部幹部がやったといい、「党史」からは削除してしまいました。不都合な真実は、ないこととして削除してしまいます。ソ連共産党でも、中国共産党でも、同じやり口です。
モスクワからの資金援助も党ではなく、一部幹部の仕業にされ、共産党の顔として長い間、君臨してきたはずの野坂参三議長も、百歳になって除名されました。あくまで個人の責任にされます。
驚くべきは、あのソ連が一九九一年に崩壊したときのことです。
革命の聖地ロシア。日本共産党綱領(六一年綱領)でも「ソ連を先頭にする社会主義陣営」といってきたのに、崩壊したときは、まるで他人事のような対応でした。当時の不破議長は、ソ連崩壊は当然だ、と冷ややかなコメントでした。
これに対し、ヨーロッパで隆盛を誇ってきたイタリア共産党は、共産党をやめて「左翼民主党」と改名し、共産主義とは縁を切り、英国やドイツの労働党、社民党らの民主的社会主義の社会主義インターナショナルに加盟したほどです。
モスクワの長女といわれたフランス共産党もガタガタになって左翼戦線のなかに溶け込み、両党とも衰退ぶりは目を覆います。
日本では、かつての社会党の左派系にソ連崩壊の激震が走りました。戦前からの無政府主義者的な社会主義者で著名だった荒畑寒村氏(一九八一年没)は、「俺は早く死にたい」「ソ連も中国も、社会主義でない」と嘆きました(『寒村茶話』)。
社会党の副委員長まで務めた高沢寅男氏(社会党左派の社会主義協会のリーダー)は、「自分の思い込みで間違ったことを述べてきた私の誤りを心からおわび」(『社会主義』九四年五月号)と書いて謝罪し、社会民主党を離党しました。
長い間、ソ連型社会主義の導入を主張し、講演をし続けたことの悔恨でしょう。二人とも正直者といえるでしょう。
《語れない暗い過去があります》
共産党は九十年以上の歴史を持つ、現存する最古の政党です。「不屈の」歴史、「一貫した」歴史と言いますが、実は語れない暗い過去、黒く塗りつぶした歴史があります。
政党も人間も、長いこと生きていると忘れたい過去の一つや二つを持つのは仕方ないことなのかもしれません。
それにしても、共産党は歴史を切り取るのですから、驚きます。
共産党は戦前派ソ連の言いなりで、テーゼ(指令)に従った歴史です。戦後もソ連、その後は中国共産党に盲従し、六〇年代後半になってようやく「自主的」になった党です。
戦後、最初の綱領は五一年綱領。これはスターリン綱領とも呼ばれます。
その次が六一年綱領。これは、モスクワで開催された世界共産党会議の声明を土台に作られました。六四年にソ連派が追放されて中国派が主導権を握り、しかし六六年に中国派は除名。このあたりから、ようやく自前の党になったのです。
ですから、共産党の歴史の半分はソ連、中国に支配されていたのです。
また先に述べたように、朝鮮戦争時の武力闘争は、「五〇年問題」として、いまの党とは関係ないとして封印、歴史からカットしています。
もう一つ、一九三三(昭和八)年に起こった暗い話。それはその後、委員長、副委員長になった宮本顕治、袴田里見氏らによる、いわゆるリンチ事件です。警察のスパイだとして仲間にリンチを繰り返し、死に至らしめた事件です。
このため、宮本氏は思想犯としての治安維持法違反のほか、監禁致死傷罪、逮捕監禁罪、傷害罪、死体遺棄罪、銃砲火薬取締法施行規則違反などで無期懲役の判決を受けました。しかし戦後、他の共産党幹部とともに復活し、党の最高指導者になったのです。
この話が一九七六年の衆議院本会議で再燃しました。当時の春日一幸民社党委員長がこの問題を取り上げ、刑法犯であったはずの宮本氏の復権に疑問を投げかけました。
これに対し、当時の稲葉修法務大臣も、治安維持法違反の政治犯釈放とは違い、「奇妙奇天烈。事は重大で、調査する」と答弁したのです。
これで当時の共産党本部は、「金魚鉢をひっくり返したように大騒ぎになった」(兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』)。
この時の袴田の供述書によれば、細引き、出刃包丁、斧、ピストルなどが用意され、リンチを加えたそうです。
一九七一~七二年にかけて、「連合赤軍リンチ」事件がありました。「総括!」と称して、十二名の若者がリンチで殺害された痛ましい事件です。過激派同士疑心暗鬼になり、殺し合ったのです。それと似た状況があったのでしょうか。
こんな暗い話は当然、封印されています。
(転載ここまで。以降は次回に)
「月刊Hanada」10月号 「日本共産党の怖さ一から教えます」より。
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「謝らない」
「党は間違えない。間違うのは個人である。」
理屈は分かる。
「社会主義社会の実現のために党が活動しているのだから、その党が『間違い』を認めたら、人民は何の指示を受けて行動すればよいのか。それでは革命は遂行できない」。
けれど、党を形成しているのは生身の人間。だから間違いも起こす。
というわけで、間違いを起こすのは生身の人間であって、党は間違えることはない。
最高指導者は「党」そのものであるから、(その地位にいる限りは)決して間違いは起こさない。
「詭弁だ」と言い切るのはちょっとかわいそうだけれど、生身の人間の個々の欲(向上心も含む)について一律に否定するやり方を採るのがマルクス社会主義で、そうなると、その場しのぎにしか見えない「個人に責任を取らせる」という方法しか取れない。
やっぱり、「無私無欲の頭脳集団は存在し得ない」、という根本的な問題が絡んでくる。
「要求はするけど責任は取らない(社会主義革命を達成・継続できないのは、最高指導者以外の全ての党員、人民の責任である)」
これでうまくいくわけはないと思うが。
前回の続きです。いきなり転載です。
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「日本共産党の怖さ一から教えます」 梅澤昇平
《けっして謝りません》
共産党はほかの政党と違って、けっして謝ったり党首が責任を取ってやめたりしません。あるのは、あくまで個人責任や「自己批判」を書かされることです。
一九五〇年代の武装闘争も共産党自体がやったのですが、当時の一部幹部がやったといい、「党史」からは削除してしまいました。不都合な真実は、ないこととして削除してしまいます。ソ連共産党でも、中国共産党でも、同じやり口です。
モスクワからの資金援助も党ではなく、一部幹部の仕業にされ、共産党の顔として長い間、君臨してきたはずの野坂参三議長も、百歳になって除名されました。あくまで個人の責任にされます。
驚くべきは、あのソ連が一九九一年に崩壊したときのことです。
革命の聖地ロシア。日本共産党綱領(六一年綱領)でも「ソ連を先頭にする社会主義陣営」といってきたのに、崩壊したときは、まるで他人事のような対応でした。当時の不破議長は、ソ連崩壊は当然だ、と冷ややかなコメントでした。
これに対し、ヨーロッパで隆盛を誇ってきたイタリア共産党は、共産党をやめて「左翼民主党」と改名し、共産主義とは縁を切り、英国やドイツの労働党、社民党らの民主的社会主義の社会主義インターナショナルに加盟したほどです。
モスクワの長女といわれたフランス共産党もガタガタになって左翼戦線のなかに溶け込み、両党とも衰退ぶりは目を覆います。
日本では、かつての社会党の左派系にソ連崩壊の激震が走りました。戦前からの無政府主義者的な社会主義者で著名だった荒畑寒村氏(一九八一年没)は、「俺は早く死にたい」「ソ連も中国も、社会主義でない」と嘆きました(『寒村茶話』)。
社会党の副委員長まで務めた高沢寅男氏(社会党左派の社会主義協会のリーダー)は、「自分の思い込みで間違ったことを述べてきた私の誤りを心からおわび」(『社会主義』九四年五月号)と書いて謝罪し、社会民主党を離党しました。
長い間、ソ連型社会主義の導入を主張し、講演をし続けたことの悔恨でしょう。二人とも正直者といえるでしょう。
《語れない暗い過去があります》
共産党は九十年以上の歴史を持つ、現存する最古の政党です。「不屈の」歴史、「一貫した」歴史と言いますが、実は語れない暗い過去、黒く塗りつぶした歴史があります。
政党も人間も、長いこと生きていると忘れたい過去の一つや二つを持つのは仕方ないことなのかもしれません。
それにしても、共産党は歴史を切り取るのですから、驚きます。
共産党は戦前派ソ連の言いなりで、テーゼ(指令)に従った歴史です。戦後もソ連、その後は中国共産党に盲従し、六〇年代後半になってようやく「自主的」になった党です。
戦後、最初の綱領は五一年綱領。これはスターリン綱領とも呼ばれます。
その次が六一年綱領。これは、モスクワで開催された世界共産党会議の声明を土台に作られました。六四年にソ連派が追放されて中国派が主導権を握り、しかし六六年に中国派は除名。このあたりから、ようやく自前の党になったのです。
ですから、共産党の歴史の半分はソ連、中国に支配されていたのです。
また先に述べたように、朝鮮戦争時の武力闘争は、「五〇年問題」として、いまの党とは関係ないとして封印、歴史からカットしています。
もう一つ、一九三三(昭和八)年に起こった暗い話。それはその後、委員長、副委員長になった宮本顕治、袴田里見氏らによる、いわゆるリンチ事件です。警察のスパイだとして仲間にリンチを繰り返し、死に至らしめた事件です。
このため、宮本氏は思想犯としての治安維持法違反のほか、監禁致死傷罪、逮捕監禁罪、傷害罪、死体遺棄罪、銃砲火薬取締法施行規則違反などで無期懲役の判決を受けました。しかし戦後、他の共産党幹部とともに復活し、党の最高指導者になったのです。
この話が一九七六年の衆議院本会議で再燃しました。当時の春日一幸民社党委員長がこの問題を取り上げ、刑法犯であったはずの宮本氏の復権に疑問を投げかけました。
これに対し、当時の稲葉修法務大臣も、治安維持法違反の政治犯釈放とは違い、「奇妙奇天烈。事は重大で、調査する」と答弁したのです。
これで当時の共産党本部は、「金魚鉢をひっくり返したように大騒ぎになった」(兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』)。
この時の袴田の供述書によれば、細引き、出刃包丁、斧、ピストルなどが用意され、リンチを加えたそうです。
一九七一~七二年にかけて、「連合赤軍リンチ」事件がありました。「総括!」と称して、十二名の若者がリンチで殺害された痛ましい事件です。過激派同士疑心暗鬼になり、殺し合ったのです。それと似た状況があったのでしょうか。
こんな暗い話は当然、封印されています。
(転載ここまで。以降は次回に)
「月刊Hanada」10月号 「日本共産党の怖さ一から教えます」より。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「謝らない」
「党は間違えない。間違うのは個人である。」
理屈は分かる。
「社会主義社会の実現のために党が活動しているのだから、その党が『間違い』を認めたら、人民は何の指示を受けて行動すればよいのか。それでは革命は遂行できない」。
けれど、党を形成しているのは生身の人間。だから間違いも起こす。
というわけで、間違いを起こすのは生身の人間であって、党は間違えることはない。
最高指導者は「党」そのものであるから、(その地位にいる限りは)決して間違いは起こさない。
「詭弁だ」と言い切るのはちょっとかわいそうだけれど、生身の人間の個々の欲(向上心も含む)について一律に否定するやり方を採るのがマルクス社会主義で、そうなると、その場しのぎにしか見えない「個人に責任を取らせる」という方法しか取れない。
やっぱり、「無私無欲の頭脳集団は存在し得ない」、という根本的な問題が絡んでくる。
「要求はするけど責任は取らない(社会主義革命を達成・継続できないのは、最高指導者以外の全ての党員、人民の責任である)」
これでうまくいくわけはないと思うが。