共産党 ③
2016.09/22 (Thu)
「目的のためには手段を選ばない。」
この言葉で思い出すのは自民、社会が一緒になって村山総理を押し立てた時のこと。
「自民はそこまでして政権を我が物にしたいのか」、みたいに言われた。
一方の社会党議員は、金輪際なれるはずのなかった大臣になれる、ということですっかり舞い上がっていた。
「総理大臣になるんだから、まさか着た切り雀の背広じゃ格好がつかない。新調してください」
、と言われた村山総理、紳士服のコナカ、だったかで二着か三着みつくろった。
「さすがに大衆の代表だ、慎ましいもんだ。自民党とはえらい違いだ」
、とマスメディアはほめそやした。
(まさかこの後、村山談話や、阪神淡路大震災の対応みたいなことが起こるとは・・・・)
確かに与党、政権の中枢にあって、常に旨味(利権)を味わってきた自民党の、「なりふり構わず」といった様子には辟易したけれど、見方を換えれば、利権への執着は社会を運営維持するための一便法であるとも言える。それならば「社会を『運営維持』するために手段を選ばない」ということを一概に否定はできない。
しかし、「現実社会『破壊』のためには手段を選ばない」ということになると、現実社会に存する人間としては肯定はできない。
「現実社会を破壊する」ということは、「現実の我々の存在の在り方そのものを否定する」、ということであり、それは財産の没収は言うまでもなく、最悪の場合は抹殺されることも有り得る、ということなのだから。
実際、文化大革命なんてそうだったわけで、南京で行われた「と主張される」二十万人とか三十万人とかの「大」とは、桁の違う粛殺が行われたことは周知のこと。
共産党の今回の「野党共闘」というのはそれではないか。
いずれは民進党を吸収、乃至は抹消する。そして共産党の考える理想社会(=社会主義社会)を実現させる。
そのための「統一戦線」という戦術を、今回は「野党共闘」と言い換えているだけのことではないか。
昨日の続き。転載です。
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「日本共産党の怖さ一から教えます」 梅澤昇平
《ホトトギスと「統一戦線」》
前述した荒畑寒村氏は、最初の頃の共産党にいたものですから、その手の内をいろいろ知っています。そのなかで〝ほほう〟と思うものに、共産党は「ホトトギス政党」だというのがあります。
「自分で巣を作らず、外の鳥のつくった巣の中に自分の卵を生みつけて、大きくなると親鳥を追っ払って乗っ取る」(『日本の革命を語る』山川均、向坂逸郎、高橋正雄著)。
たしかに調べてみると、ホトトギスはウグイスの巣を利用するんですね。これを「寄生的な繁殖習性」というのだそうです。たしかに、日本共産党にもそういう習性があります。
戦後すぐに社会党ができ、共産党も活動を再開する。そこで共産党は、社会党を乗っ取ろう(?)としてちょっかいを掛けます。それが統一戦線です。
狙いは、天皇制を廃止して社会主義統一戦線政権を作るためです。これに社会党は振り回されました。再三再四、共産党は社会党に申し入れ書を持ってくる。
しかし当時の社会党は、その後の民社党を作った右派が主導権を握っていました。その中心人物は西尾末廣氏(社会党書記長、片山内閣官房長官、民社党委員長)でした。
彼は戦前からの労働運動の指導者(総同盟副会長など)で、労働組合への共産党の侵入と闘ってきましたので、共産党の申し入れ書をその場で破り捨てるという荒業を見せました。
これに共産党幹部は怒り、何度でも申し入れに来る、と捨て台詞を吐きました。それに対して西尾は、信頼できないものとはやらない、と跳ね返したといわれます。つまり文書のことではなく、相互に信頼できない連中とは行動もともにできないぞ、ということなのです。
民進党は、一昨年以来の安保法制問題で、すっかり共産党の一点共闘、一点統一戦線の網に引っ掛かったきらいがあります。
統一戦線は長い歴史があります。共産党の常套手段といっていいでしょう。
一九三五年、コミンテルン(国際共産党)の第七回大会でディミトロフ書記長が提案して以来の歴史があります。ファシズムから共産党を守るため、本当は嫌いな社会民主主義勢力を抱き込むための戦術です。そして一度、統一戦線の網に入れたらあとは逃がさないぞ、という道具です。
「統一戦線は共産党の手中で棍棒の役目をつとめる」(ニーマイヤー『共産連立政権戦術』)といわれます。戦後の東欧の歴史を見ればそのとおり、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなど、将棋倒しで次々と統一戦線内閣ができ、少数派だった共産党が警察と軍を押さえ、事実上の共産党政権にしました。
《「革新自治体」という昔の甘い夢》
日本では、統一戦線は当時の社会党右派が頑張って作らせませんでした。これで、天皇制廃止論も吹っ飛んだといえるでしょう。
しかし、悪夢もあります。それは共産党主導でいわゆる「革新自治体」と呼ばれた自治体ができ、財政は破綻、お役人天国、労組専横、偏向行政などが行われ、その後始末に多くの自治体が苦労したことです。
昭和四十年代、一九六五年頃からで、代表的なのは蜷川京都府政(七期二十八年)、美濃部東京都政(三期十二年)、黒田大阪府政(二期八年)があります。これは社会党と共産党を軸に、総評や左翼文化人などによる統一戦線といえるものです。
三都府とも最初は社会党が主導しましたが、選挙のたびに共産党が都府議会や国会での議席を伸ばし、ついには共産党が上回って都府政の主導権を握ってしまいました。社会党や総評の組織は、根こそぎ共産党に食い散らかされました。
この当時、もっとも共産党勢力が強かった京都府では、本庁職員七千人のうち三千人が赤旗の定期購読者にされ、府庁舎内では「噂のゲー・ペー・ウー」と言われたように、批判的な言動は厳しく監視されていたといわれています(山本茂『地方王国の盛衰ー共産党[京都府]』。)
そしてバラマキ福祉で、バブル経済が弾けるとどこも財政破綻、そこでようやく革新自治体は崩壊したのです。
しかしこの当時でも、国政では社共の統一戦線や選挙協力はできませんでした。
地方自治では外交・防衛問題は主題にはならないですが、国政ではそうはいかないのです。社会党時代に共産党との選挙協力は調べた限りでは、一九七七年の参議院宮城選挙区で共産党が候補を下して協力したという一件のみです。
社会党の左派は共産党との共闘を目指しましたが、党の大勢は社公民路線(社会、公明、民社の協力)を模索していたからです。
今回、参議院選挙という国政選挙で、民進党が共産党と一人一区で全面的な選挙協力ををしたことは、戦後の歴史にもないことです。共産党の誘いがうまかったのか、民進党が目先の利益を優先して深く考えなかったか、ということでしょうか。
(転載ここまで。以降は次回に)
「月刊Hanada」10月号 「日本共産党の怖さ一から教えます」より
註
「ゲー・ペー・ウー G・P・U 」
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部附属国家政治局(ロシア・ソビエトれんぽうしゃかいしゅぎきょうわこくないむじんみんいいんぶふぞく こっかせいじきょく)・・・・。あまりにも長いので頭文字で言うのが普通です。
スターリンの死後の1953年9月に廃止。後にソ連国家保安委員会(カー・ゲー・べー、(或いはケージービー)KGB)として生き残る。