6月23日(木)
1時過ぎに寝て5時頃起きる。
昨晩、急に雨が降ったので今朝はまだ庭の雑草も濡れている筈、と思いながら、「今日は木曜日だ。今を外せば月曜までこのままだ」と、意を決して蚊取り線香も用意、鎌を持って庭に出る。
予想通り、草を刈り始めたらすぐに軍手がびしょびしょになった。
棘が刺さったようで、慌てて左手だけゴム手袋に替える。
中途半端だったけど、取り合えずゴミ袋二つを一杯にして捨てに行く。
それで安心したというわけではないが、朝食を摂った後、そのまま寝てしまい、1時半頃気が付いて起き上がり、習字。
カブでひよどり台まで行く。
先日来、「焙じ茶を飲みながらタイ焼きを食べたい」という妄執に取り憑かれている。
数年に一度、タイ焼きを食べたくなる。で、買う。食べる。それで満足して、また数年食べないで終わる。
いや、満足という言葉は適切ではない。
「妄執」から、「ん?こんな味だった?」という失望感、すべった感で「もう、いいや」となってしまっている、というのが正解なのかも。
欲しくなくなるから数年は食べないのだが、そこはそれ、老人力がついて失望感なんてものはすぐ忘れられるようになってきているから、今まで買ったことのない店を見つけると、つい期待してしまう。
久しぶりに「これはいい」と思った。以降、週に一回くらいの割合で四、五回買いに寄っている。
で、「これは焙じ茶だな」、と。
野菜を買って、焙じ茶を買って、最後にタイ焼きを買って、あとは帰るだけ。
帰ったら、手順に従って野菜を冷蔵庫に入れ、シャワーを浴び、焙じ茶を入れてタイ焼きを食べるだけ。
「野菜を冷蔵庫に入れ」、までは、できた。
「シャワーを浴び」、も、できた。
けど、「焙じ茶」が待てないで、つい、一枚食べてしまった。
もう一枚残っているから良いようなものだが、それではタイ焼きの味に一枚目ほどの感激はないだろう。
惰性でもう一枚食べてしまうことをすれば、「タイ焼きに焙じ茶」作戦は失敗。
だからと言って今から焙じ茶を淹れても、一枚目ほどは美味くない。
明日、タイ焼きをレンジで温める。それからトースターで軽く焼く。
焙じ茶を淹れて置く。
「共振」は確実に近づいてきている。
「何を太平楽なことを」を、って?
初めからゴム手袋にしていたら、手が蒸れる不快感があるばかりで、朝の草刈りの感触は体験することなく終わる。
計画通りお茶を淹れて、タイ焼きを食べてたら、こんなものか、と小さく満足して終わるかもしれない。
物事は色々な思惑の微妙な係わりで成り立っている。
調理だって演奏だって、勿論「政治」だって。