CubとSRと

ただの日記

「南京事件」はもう効果が薄れてきた(使えなくなった)から、次の一手を

2022年07月30日 | 心の持ち様
読者の声 どくしゃのこえ

(読者の声2)シナ事変の常識
1.事変の原因について
 いまだに盧溝橋事件が発端という日本人が多い。しかし新しい歴史情報がある上、ソ連の自滅と今回のロシアの侵略行為により戦後の歴史観の縛りがなくなったから、合理的に歴史の真実に迫りたい。盧溝橋事件を調べるには、事件そのものよりも、当時の蔣介石と日本側の状況を知ることが第一だろう。

2.蔣介石の対日戦争準備
 蔣介石は事件直前の1937年6月時点で、すでに対日戦用の軍備として兵士百万、軍馬十万頭の半年分の食糧を準備していたと記している。
 当時支那にいた日本軍は義和団事件の国際PKO部隊であり、日本の他に米英仏伊軍も北京地域に駐屯していた。それなのに何故か日本軍だけが狙われたのである。
 また蔣介石は上海租界の北方地域には巨大なトーチカ陣地を構築していた。ここに据え付けられた無数の水冷式重機関銃はソ連製だった。そして西北の蘭州には、ソ連がウルムチとウランバートル経由で対日戦争用の大量の戦闘機、爆撃機、兵器、弾薬、赤軍軍事顧問団を集結させていたのだ。

3.日本人の誤った歴史観
 戦後、蔣介石の右腕と言われた陳立夫が、日本の歴史作家達に「シナ事変を演出したのは、ソ連だ」と述べた。日本人は、シナ事変を日本の軍閥が起こした戦争と思い込んでいたので、意味が分からなかったという。まさに戦後の社会党訪中団が毛沢東からシナ事変のお礼を言われて戸惑ったのと同じである。
 毛沢東の好きな格言は、「馬鹿は大石を持ち上げて自分の足の上に落とす」だったというから、内心嘲笑していたのだろう。日本人は進歩がない。

4.支那事変の正体
 支那事変とはスターリンがナチスドイツの攻撃に備えて、東西挟撃を防ぐために、東部国境の反共勢力であった蔣介石と日本を戦争させ無力化を図ったものである。
 そのためにスターリンは1935年秋毛沢東に伝書使を送った。指示を受けた毛沢東は張学良を使って1936年12月に西安事件を起こし、蔣介石を捕らえて降伏させ国共内戦の停止と対日戦に同意させたのである。
 そして蔣介石は半年かけて対日戦争の準備を完了し、小競り合いを始めたのである。それが盧溝橋事件である。
 これはその後の廊坊事件、広安門事件、通州事件、大山大尉遭難事件と続き、8.13の蔣介石の上海租界奇襲となるのである。これを見ると全部計画されていたとみるべきであろう。

5.日本の対応
 こうした7月の支那の急変をみて、異常を感じた陸軍参謀本部の石原莞爾作戦部長は、1937年7月19日、杉山陸相に面会し、在支日本軍と邦人の全面南部引き揚げを提案した。石原大佐は以前支那全土を見て廻り、秦嶺山脈を踏破したというシナ通であったから、日本が広大な大陸に入りこめば国が破滅すると恐れたのである。
 しかし杉山陸相は梅津次官等が蔣介石を軽視し、シナの権益を守ろうとして反対したので、石原の案は採用されなかった。そして日本は蔣介石の挑発に乗り、亡国に至るスターリンのワナに落ちていったのである(詳しくは拙著『中共の正体』<ハート出版>をご参照ください)。

 支那事変は古い戦争だが、日本は被害者なので、因果関係をよく知っておく必要がある。戦記物を扱う古書店にダンボール箱があったが、その送り先は上海だった。中共は、南京事件には手垢がついて日本人が相手にしないので、別の事件をでっち上げる用意をしているのではないか。支那事変は終っていない。
  (落合道夫)




「宮崎正弘の国際情勢解題」 
      令和四年(2022)7月29日(金曜日)弐
          通巻第7418号 より
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