6月20日(木) ゴミ当番終了(?)後。
さてそれでは、と、家に帰り自動車学校へ行く準備をする。
腰が痛い。
上がり框で靴を穿こうとする時も「大丈夫かな、これ」と思うほど痛い。
だが、SRのセンタースタンドを外し、ガレージから引き出す時はさほど痛みはなく、いざエンジンを掛けようと脚を上げ跨ることは出来る。
問題なくエンジンがかかり、ほとんど同時に痛みは霧消している。
高齢になって支えなしでは歩くのも覚束なくなった武術家が、鎖鎌を持たせたらしゃんとして流れる様な足さばきで型を遣う。
それを見た娘たちが、驚きながらも
「お母さまにはずっと鎖鎌を持っていていただこうかしら」
と軽口を叩いて笑い合ったという話を読んだことがある。
あれとは全くレベルの違う話ではあるが、何かあの「人間の解剖は猿の解剖(解明)の鍵である」と関りがあるのでは、と思う。
最近は歳を取っても筋肉量は増加させることができる、と言われるようになったが、二十年くらい前には「七十歳を過ぎると筋肉は増加しない(従って70を過ぎてのボディビルは一利もない)」というのが常識として罷り通っていた。
けど、あの「赤ちゃんは生まれて一週間くらいは目が見えない」という通説が論理学によって否定されたのと同じで、「超回復の時間は年齢によって変化していく」ということを抑えてトレーニングの量と時間それぞれの算出をすれば、70以上のボディビルには「利」も「理」も見いだせるということになる。
自分が歳を取るにつれて自身を実験台にしていくことの大事さを分かり始めたのかもしれない。超回復のための時間は十分、いや十二分に取ること。
慣れてきたらつい質量共に高めようと欲を出してしまうが、身体の衰えていくことを甘く見ない方が良い。
精神には「年の功」があるが、身体の方は「年寄りの冷や水」が基本の捉え方であるべきだろう。
そして歳を取れば取るほど「人に隠れて稽古に励む」こと。
人前で技術を見せれば、幼児も老人も同じく褒められる。幼児も老人も褒められればうれしい。うれしいから無理をする。
幼児の無理には精神性が伴ってないが、老人の無理は精神性が必要以上に関って(拘わって)来る。舞い上がらない(独走しない)ようにするには、やはり人前では技術を見せない、ことか。
「高齢者講習受講申し込み」・・・・・・・。いつになったら書けるんだ?