7月12日(金)
(新しいノートを使い始めるに際して)
今日からまた頁両面使って書いていくことにする。
「月に一冊使うくらいなら、片面だけの日記にしても良いか」。
そう思っていたのだが、思いの外ノートを使い切るのが早い(半分しか使わないから当然のことなのだけれど)。
本棚に並んでいるのを見ると、既にその幅は1メートル。・・・・はウソ。
80センチくらい。
中身はない。本人が言うのだから間違いない。(ん?どこかの元「〇対協」みたいなこと言ってる)
ただ、「嘘も百回吐けば真実に~」じゃないけど、諦めずしつこく言って取り組み続けていれば、それは当人にとっての「真実」になり、その「真実」が当人をも変えていく(成長させていく)。
まあ、出発点が嘘ならいずれは破綻するときが来るのだが、生きているうちに破綻しなければ、当人にとっては大勝利だ。
「そういう生き方はしたくないね」というのはこちらが勝手に言っていること。
また脱線した。
50歳になった時、頭がかなり怪しくなってきた(外側・頭皮ではない。中身。頭脳のこと)と感じ、日記をつけることで認知能力低下の速度を抑えようと思った。
何を書こう、となって愕然とした。
書くことがない。今日も昨日と同じ。一昨日も今日と大きくは変わらない。同じような毎日の何を書くんだ?
でも、日記を書く以上の方法は見つからない。だから、とにかく毎日ノート1頁は何かを書こう。
それで、「まずはあったことを記録しよう、小学生の日記と変わらない、朝何時に起きて朝御飯は何時で仕事には何時に出て~、でも良いじゃないか。
まずはやってみることだ」。
そうやって日記を書き始め、数年経った時、またもや愕然とした。
「何も変わってない。ボケ予備軍のままだ。いや、もう正規軍に編入されたかも」。そう感じることができただけ、それだけ、が救いだった。
あったことを書いているだけでは頭が良くなるはずがない。そこに自身の考えがないからだ。「あったことを書く」のではなく「あったことについて思ったことを、更には考えたことを書く」のでなければボケ対策にはならない。
日記を書くというのは誰かに向かって自身の思いを伝えようとすることだ。声ではなく、文字でそれを行おうとすることだ。
「誰か」は他人であっても過去の自分であっても存在しない何者かであっても何ら問題はない。要は対象を定めて、対象に対して自身の思いを述べようと努力することだ。
「あったことを書くだけの日記」には、その対象(話す相手)がない。だからボケ防止にはつながらない。
日記をつけることを己に課してから20年。
少なくとも「ボケ防止」という後ろ向きな理由を前面に押し出すことはしなくなった、か?