CubとSRと

ただの日記

日本語をお手本にした「時文」と「白話文」

2019年07月25日 | 重箱の隅
 ただ、中国の近代化が和製漢語を輸入して使うだけですべてOKで、文章は「てにをは」もない従来の漢文のままというわけにはいかなかった。
 語彙だけでなく、古い科挙時代の漢文の文体では新しい思想や概念や事物はもはや表現できない。
 日本人はすでに欧米語を基礎とした新しい日本語・日本文の開発を完了していた。
 中国人留学生は漢字をとおして日本語の文体も容易に習得できたので、それを下敷きにして考え出されたのが日本語直訳の時文や白話文である。
 時文とは、日本製熟語の語彙を借用し、日本の「てにをは」にあたる語を入れて書かれた文章で、官庁の文書や新聞などで使われた。
 古典的な文章とは文字の並べかたも違い、それ以前の中国の公用語とは似ても似つかない新しい言語だった。
 漢字には品詞もなく、性も数も格変化もない。漢字を並べるだけでは微妙なニュアンスはすべて抜け落ちてしまう。
 しかも、中国の話し言葉には全国共通の文法というものがないから、一つの文のなかで漢字をどう配列するか、その基準もなかった。
 漢文はいろいろに解釈できるあいまいなものだったのである。
 それでは西洋の新しい理論を学ぶのには不向きである。学術理論だけはさすがに6~7割わかればいいというわけにはいかない。そこで、日本語をお手本にすることになった。
 「てにをは」があれば、文章のつながりもはっきりする。所有をあらわす日本語の「~の」にあたる文字として「的」、位置をあらわす前置詞的な「~に」は「在」や「里」などの文字を入れるようになった。「関于」(~に関して)、「由于」(~によって)、「認為」(~と認める)、「視為」(~とみなす)なども、日本語を翻訳する過程で生まれた言い方である。
  
 更に句読点を入れたり、横書きにしたりするようになったのも日本文の影響だった。
 そして、日本語にならい、「西洋化」の「化」や、「中国式」の「式」、「優越感」の「感」、「新型」の「型」、「必要性」の「性」、「文学界」の「界」、「生産力」の「力」、「価値観」の「観」というような文字を使って語彙を増やしていった。
 こうして中国語の表現はそれまでとは比較にならないほど豊かになり、緻密さと論理性が加わるようになったのである。



  「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子
    より転載
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「てにをは」。
 物事のつながり、位置関係、前後の関係、時系列等を「てにをは」を用いて明らかにしなければ、物事の説明、論理展開はできない。
 なのに、漢文にはそんなものは言うまでもなく、品詞の概念さえなかった。以前に書いた「同」は、日本語では「同じ」、だが、シナではその辺が未分化で、「同」は「同じくする」という形容の意味を含んだ動詞的に使われることが多かった。
 そんなことでは物事の説明なんてできないだろう、と思うのは日本人の勝手な解釈で、彼らは6~7割分かれば「大体分かった」として実行動に移る。漢字を見て字毎の意味を捉え、それを平面に並べて「こんなことを言いたいのだろう」と6~7割了解する。当然「~だろう」が平常運転。見切り発車が日常。
 
 そう考えれば、政府報道官の何とも激烈な物言いは、漢字を並べているだけの話で、脅しつけるような言い方のわりに、「上手く畏れ入ってくれたらもうけもの」と思っている可能性あり。
 対して、日本人はその各語句の並びから深読みをし過ぎるのかもしれない。
 「~なことを言いたいのだろう」と話半分で聞き流す方が良いのかも。


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「人民」も「共産主義」も日本語

2019年07月23日 | 重箱の隅
 ~~現代のある中国人研究者は、和製漢語が現代中国語で書かれた文章の延べ70パーセントを占めると嘆いていた。
 中国で使われているおもな和製漢語の一覧を文末に掲げたので、ご参照いただきたいが、たとえば、「中華人民共和国」の「人民」も「共和国」も、「共産主義」も「社会主義」も、「改革」「解放」も、「同志」「進歩」「思想」「理論」「階級」など中国共産党の大好きな言葉はどれも、日本人が西洋語を翻訳してつくったものである。
 「人民」は『周礼』や『孟子』にもある語彙だが、これを「ピープル」の訳語にあてたのは日本人である。
 ちなみに「革命」も中国に古くからある言葉で、もともとは「それまでの皇帝に与えられていた天命が奪われて別の者に移ること」だったが、この時期から日本語にならって「レボリューション」の意味に使われるようになった。
 また、英語の「ノベル」にあてた「小説」という翻訳語も、中国では「民間で語られている、とるに足りない話」くらいの意味だったが、日本人がこの語彙を選んだために、中国人は「へんな言葉をあてたものだ」とブツブツ言いながら採用している。
 もっとも、中国でも、自分たちで西洋の翻訳語をつくろうとはしていた。
 音を漢字であらわした「徳謨克拉西デモクラシー」(民主主義)や「賽因斯サイエンス」(科学)といった言葉もつくられたが、主として、「計学、資生学」(エコノミクス)、「理学、智学」(フィロソフィー)、「群学」(ソシオロジー)「格致学」フィジックス)「玄学」(メタフィジックス)のように、古文献から援用したものだった。「新造語」である和製漢語に対し、中国では「借用語」に頼ろうとした。
 「革命」や「小説」などと〝まちがった〟言葉を使う無知な日本人とちがって、こちらは漢籍の本場だという意識があったのだろう。
 しかし、シナの古典からの引用は、そもそも概念が西洋のものとは異なるので、かなり無理があった。
 結局、それぞれ日本製の「経済学」(エコノミクス)、「哲学」(フィロソフィー)、「社会科学」(ソシオロジー)、」物理学」(フィジックス)「形而上学」(メタフィジックス)にとってかわられてしまった。
 学術上の術語、用語においてはほぼ百パーセント日本語の直輸入という説もある。
 「新造語」と「借用語」の差について黄文雄氏は、『近代中国は日本がつくった』(光文社)のなかで、こう書いている。
 【それはつまり異文化摂取の姿勢における、融通無碍な日本人と自国文化に固執する中国人との差である。
 「新造語」とは日本人が西洋文化を自分の血と肉にしようとする意欲の表れである。「借用語」とは「中体西洋」(注・中国伝統の文化をもとに、西洋科学の技術のみを取り入れること)という、極めて傲慢にして安易な中国人の姿勢の表れかもしれない。
 その差がそのまま、日中両国の近代化の差になって表れたと言っていいだろう】
 
 そのとおりだと思う。ただ、中国のある研究者は、なぜ中国製の訳語が取り入れられなかったかについて、和製語がたくさん使われた日本の本に価値があったからだと言っている。
 日本語の本で勉強した以上、その言葉を使わざるをえないから定着した。「玄学」とか「理学」とか「計学」とか、中国製の語彙はたしかに統一はとれているけれど、使わなければ普及しない。
 
 それに、フランス語やドイツ語や英語を学んだ留学組にしても、自国民に対しては中国語でものを書く限りは、みんなが知っている漢字を使って、その組み合わせに書き換えるしかない。
 つまりは欧米の本を翻訳するにも和製漢語を使わざるを得なかった。だから和製語が普及したのである。
 結局日本のほうが一歩先んじていただけではなくて、知識人の裾野が広く、層が厚かったのだということができる。



 「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子
    より転載

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 もう、これでおしまい、と言いながら延々と転載を続けています。
 が、もうここまで来たからには今月一杯・・・・。
 ・・・・、というわけではないのですが、どうしても転載しなければ、と思う「時文」と「白話文」についての文章があります。
 それに「和製漢語」の一覧もあった方が良いでしょう?
 ね?

 と言っても、あと一週間ですから。


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「中国」を終わらせた日清戦争 (後半)

2019年07月22日 | 重箱の隅
 続きです。
 アヘン戦争は「中国」にとっては「辺境の地の蛮族の騒乱」くらいなもので、「仕方がないから入港を許してやろう」という、飽く迄も上から目線。
 清帝国は袁世凱が巨額の軍事費を用いて西洋式軍備の北洋軍を新設し、強大なまま存在している。金さえ注ぎ込めば、足りないところは補えばよい、なければ持ってくればよい、と考える。自身、工夫して創出しようとはしない。
 だから「軍備以外」は近代化されていない。
 アヘン戦争を見てきた日本は、軍備だけでなく国家体制そのものを近代化しなければ、と考え、やり繰りをして軍備も拡充しながら近代化に成功した。
 今、あるものを用いて(そうするしかないから)、次の段階に進もうとする。
 新幹線がそうだったように、「今ある技術だけ」で、世界中のどこにもない、「時速二百キロの営業運転をする鉄道」をつくる際の工夫。
 この基は明治期の「翻訳語」に顕著にみられる。
 苦心して翻訳語をつくった日本と、苦心惨憺することなど全くなく、その翻訳語を便利なツールとして取り入れ、事足れりとするシナと。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 清国留学生は日本の教科書や参考書を読んで大喜びしたはずである。
 西欧語はチンプンカンプンでも、日本の本は漢字がたくさん使われているので、どれを読んでもなんとなく意味がわかる。
 さっき言ったように、もともと漢字は不完全なコミュニケーション・ツールで、異民族同士の符牒にすぎないので、なんとなく意味が通じればそれでいい。
 日本語がわかろうがわかるまいが、日本語の発音がどうであろうが、そんなことは問題ではない。
 もともと、何かをつきつめて百パーセント理解しようという文化は彼らにはない。
 すべてアバウトな、「馬馬虎虎(マーマー・フーフー。まあまあ適当に)」とか「差不多、一様(チャ ブトー、イーヤン。たいした違いはない)」とかいう精神で生きているから、日本人の翻訳した漢字の並びを見て、六、七割わかればそれで十分だった。
 ヨーロッパの最先端の思想が、日本語の字の並びをながめているだけで漠然とわかるのだから、これは便利だとばかり、そうした「和製漢語」を本国に大量に持ち帰った。
 日本が三十年かけてこれだけの〝漢語〟をすでに作っているので、これを使えば、われわれは二年くらいで近代化(西洋化)を終えて日本を追い越せると考えたのである。
 そのメンタリティーは現代でも変わっていない。新幹線の技術だけを取り入れれば、自分たちはもっと進んだ高速鉄道をあっというまにつくれる。
 そう考えるのが中国人である。安全のためのメンテナンスやモラル、乗客へのサービスなどといったものは彼らの頭にはない。
 
 
 「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子
    より転載
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 「漢字は表意文字」と習ったんだけど、もうひとつピンと来なかった。
 それがここに来てやっと(遅すぎる気も、しないでもない)、感覚的に分かったような気がする。
 「漢字」、或いは漢「字」という、「字」に目が向いてしまってたんだけど、これを「字」ではなく、「絵」として見たらどうか。一字が一枚の「解説絵」。見たら何となく意味が分かる。
 漢字が絵と違うのは、昔からモンタージュ技法が存在していたというところだろう。違う意味の「絵」を、二つないし三つ、一緒に書く。で、その一緒に書かれた絵をつなげて、言いたいことを探る。じっくり考えるのではなく脊髄反射的に「感じる」。
 これだったら、「見ただけで十分。発音なんてどうでもよい」、となる。
 エジプトの絵文字は絵が発音を表すのだそうだけど、漢字は意味さえ伝われば(それも「何となく」程度)良いのだから、ホントに文字通りの「表意文字」。


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「中国」を終わらせた日清戦争

2019年07月21日 | 重箱の隅
 あれ?前にも同じようなこと書いてなかった??
 試しにこれまでの題名を見たら、ほら、やっぱり。
 『中国の近現代史は日清戦争からはじまった(!)』って書いてあるじゃないか。
 大丈夫か?ボケてない?
 ・・・・、と思っていただいた方には、「何ともありがとうございます」と感謝の言葉を。
 ただ、あの時は毛沢東の書き換えた「プロパガンダとしての歴史」という観点からの文章でしたが、今回は俯瞰的に見た、言葉通りの「歴史」です。
 これを並べて見れば、毛沢東の罪深さがより鮮やかに見えてくるのではないかと。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 中国の近代化は、アヘン戦争によってはじまったと言われるが、じつは、当時の清朝にとってはそれも地域戦争にすぎず、漢字も知らない野蛮なイギリス人(英夷と呼んでいた)が南のほうで大砲を撃って暴れているので、しかたなく港の貿易だけ認めてやろうというだけの事件だった。
 シナでは何千年来つねに、異民族が辺境で騒ぎを起こしてきた。イギリス人もその夷狄(いてき)の一種であるという認識だったのである。
 ちなみに、清朝にとっては小さなエピソードにすぎなかったアヘン戦争を中国の転換期であったと宣伝したのは毛沢東だったが、それについては拙著『真実の中国史[1840-1949]』(李白社発行/ビジネス社発売、同名でPHP文庫化)にゆずる。
 それに比べて、日清戦争の敗北は中国人にとって大きなショックだった。なにしろ、わずか三十年前に欧化政策を取り入れ、近代化の道を歩みはじめたばかりの日本に、清では最新の西洋式軍備を備えていた李鴻章の北洋軍が壊滅させられてしまったのだから。
 紀元前211年の秦の始皇帝以来の伝統のシステムがもはや通用しないことがあきらかになり、ついに清朝も近代化の必要性を認めざるを得なくなった。
 
 海外に留学生を派遣して官吏に登用し、やがてシナで1300年にわたって続いてきた科挙試験は廃止された。
 中国の歴史は「中国」以外の国々の影響を受けざるを得なくなって独立性を失い、世界史の一部、それも日本を中心とする東アジア文化圏に組み込まれた。
 こうして「中国」の歴史は終わったのである。
 もっとも多かった留学先は日本だった。
 日清戦争の翌年の1896年(明治29年)の十三名をはじめとして、日露戦争翌年の1906年(明治39年)には八千人から九千人に達した。
 日本が山東省の旧ドイツ権益を継承することを容認したパり講和会議をきっかけとして、1919年(大正8年)に反日の五・四運動が起こるが、それまでの四半世紀にわたり、毎年平均五千名の中国人学生が日本に留学した。
 この十万人を超える日本留学経験者が持ち帰ったものが現在の中国文化の基礎をつくったのである。
 なかでも最も根本的なのは、日本語が中国の言葉に与えた影響だった。
 続く)


 「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子
    より転載

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うまいこと言うよね。

2019年07月20日 | 重箱の隅
 日韓のハイテク製品に必須の素材に関する輸出規制問題は韓国も一歩も引かず文在寅大統領の発言はこのまま行けば戦争になってもおかしくないほど勇ましい。
 ネットではそんな状況を揶揄して楽しんでいる。
 韓国:「賽は投げられた」
 日本:「匙が投げられた」
 韓国:「ルビコン川を渡った」
 日本:「三途の川を渡った」
 まさに亡国一直線。
 (以下略)
 (PB生、千葉)


 ~「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)7月19日(金曜日)
        通巻第6145号~ 
    (読者の声より)




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