先日、ベッドの頭側を東向きから西向きに換えた。単純に気分転換のためだ。
単純に気分転換、と言っても、何しろベッドを置いてから20年間、向きを変えたことは一度もない。
初めてベッドを置いた時、「北枕は良くない」、ということは聞いていた。
「じゃ、日の上る方向に頭が向いていれば文句はあるまい」
ということで、頭は東向きにしようか、となる。
東向きなら部屋の入り口が足元の方になるから、安全面でも、その方が良かろう、という気になっていた。考えて見りゃ「安全面が云々」って家に鍵は掛けても、各部屋に鍵をかけるなんてことはないのに。
それ以来二十年間、ずっと東方向に頭が来る形で寝ていた。
この数年間「やはり北向きは良くない」
とか、逆に
「いや、北向きの方が良いんだ」
というような声が聞こえてきて、何故?と余計に思うようになった。
何しろ、皇居への尊崇の念、祖先の墓・先祖への崇拝の念に篤かった吉田松陰は「皇居には足を向けては寝られない」「祖先の墓に脚を向けては寝られない」、何よりも藩主の居城でもある「萩の城に脚を向けては寝られない」。
結果、松陰は寝間では厳密に方向を確かめ、布団を畳の縁に添わせることをせず、妙な具合に斜めに布団を敷いて寝ていた、とか。
この話を聞いた学生の頃は、何とも堅苦しいというか、
「四角四面な人なんだなあ。変質狂みたい」
と少々以上に呆れたことを覚えている。
けど、まあ松陰の、そういう考え方自体はそれなりに筋が通っているわけだから、一概に馬鹿にはできない。
周囲の目ばかり気にして、自分の意志を貫けないことの多い一般の人に比べたら、筋の通った理屈と信念で以て断行するわけだから、却って「立派だ」と言えるかもしれない。
これだって「敵千万と雖も我征かん」、だ。
これに比べたら「北向きはダメ」にしても「いや、北向きこそ正しい」にしても、ちゃんとした筋の通った説明をしなければ、全く人の考えとは言えない。
そして理由の明らかにされない(或いは理由の説明を拒む)教条に、唯々諾々と従うのは人の採るべき道ではない。「アベガー」、「ジミンガー」、「アベ政治を許さない!」、「自民党、感じ悪いよね」、みたいなのがそうですよ。ちゃんとした説明による理解があれば、スローガンなんて要らないわけですから。
あ、また久し振りに脱線。
「北枕は良くない」。
最近になってやっと理由を聴けた。
釈迦が亡くなる時、「北に向けて寝かせてくれ」と言ったのだという。
そうして、その姿勢で横になったまま、息を引き取るまで法を説いた。
そういう事実があって、
「お釈迦様の姿勢に倣おう(あやかろう)」
とか
「お釈迦様が亡くなった時の姿勢だから、(死ぬときでもないのに、北枕は)良くない」
という正反対の解釈が成立した。
「我々凡夫もお釈迦様にあやかって北枕で寝れば、賢くなるかも」。
この「あやかって」、がいかにも日本人の考え方。
で、その反対である「北枕は良くない」というのは
「あんなに偉い人でも亡くなる。その人が北枕で亡くなった。死は穢れであるから一番偉い人が北枕で亡くなったのなら、それだけは生きている者は真似すべきではない。」
死を忌み嫌うこの考え方も又日本人の考え方。
つまり、北枕には別に意味なんかない、ということだ。
ちゃんとした意味のあるのは、吉田松陰のややこしい布団の敷き方の方だ。 けれど、松陰の方は、世間一般から見れば、変質狂(で悪ければ「拘り過ぎ」)にしか見えない。
・・・・ということで、松陰の場合は「足の向き」に論点があり、北枕の場合は「釈迦の故事」に倣う件、が話題になっている。
西に頭が来るようにベッドを百八十度動かして数日。
顔を左に向けたら目の前にドアがある。どうも落ち着かない。
それで時計回りに九十度動かした。
結果、生れてはじめて北枕で寝ることになった。
意外に良いかも。
単純に気分転換、と言っても、何しろベッドを置いてから20年間、向きを変えたことは一度もない。
初めてベッドを置いた時、「北枕は良くない」、ということは聞いていた。
「じゃ、日の上る方向に頭が向いていれば文句はあるまい」
ということで、頭は東向きにしようか、となる。
東向きなら部屋の入り口が足元の方になるから、安全面でも、その方が良かろう、という気になっていた。考えて見りゃ「安全面が云々」って家に鍵は掛けても、各部屋に鍵をかけるなんてことはないのに。
それ以来二十年間、ずっと東方向に頭が来る形で寝ていた。
この数年間「やはり北向きは良くない」
とか、逆に
「いや、北向きの方が良いんだ」
というような声が聞こえてきて、何故?と余計に思うようになった。
何しろ、皇居への尊崇の念、祖先の墓・先祖への崇拝の念に篤かった吉田松陰は「皇居には足を向けては寝られない」「祖先の墓に脚を向けては寝られない」、何よりも藩主の居城でもある「萩の城に脚を向けては寝られない」。
結果、松陰は寝間では厳密に方向を確かめ、布団を畳の縁に添わせることをせず、妙な具合に斜めに布団を敷いて寝ていた、とか。
この話を聞いた学生の頃は、何とも堅苦しいというか、
「四角四面な人なんだなあ。変質狂みたい」
と少々以上に呆れたことを覚えている。
けど、まあ松陰の、そういう考え方自体はそれなりに筋が通っているわけだから、一概に馬鹿にはできない。
周囲の目ばかり気にして、自分の意志を貫けないことの多い一般の人に比べたら、筋の通った理屈と信念で以て断行するわけだから、却って「立派だ」と言えるかもしれない。
これだって「敵千万と雖も我征かん」、だ。
これに比べたら「北向きはダメ」にしても「いや、北向きこそ正しい」にしても、ちゃんとした筋の通った説明をしなければ、全く人の考えとは言えない。
そして理由の明らかにされない(或いは理由の説明を拒む)教条に、唯々諾々と従うのは人の採るべき道ではない。「アベガー」、「ジミンガー」、「アベ政治を許さない!」、「自民党、感じ悪いよね」、みたいなのがそうですよ。ちゃんとした説明による理解があれば、スローガンなんて要らないわけですから。
あ、また久し振りに脱線。
「北枕は良くない」。
最近になってやっと理由を聴けた。
釈迦が亡くなる時、「北に向けて寝かせてくれ」と言ったのだという。
そうして、その姿勢で横になったまま、息を引き取るまで法を説いた。
そういう事実があって、
「お釈迦様の姿勢に倣おう(あやかろう)」
とか
「お釈迦様が亡くなった時の姿勢だから、(死ぬときでもないのに、北枕は)良くない」
という正反対の解釈が成立した。
「我々凡夫もお釈迦様にあやかって北枕で寝れば、賢くなるかも」。
この「あやかって」、がいかにも日本人の考え方。
で、その反対である「北枕は良くない」というのは
「あんなに偉い人でも亡くなる。その人が北枕で亡くなった。死は穢れであるから一番偉い人が北枕で亡くなったのなら、それだけは生きている者は真似すべきではない。」
死を忌み嫌うこの考え方も又日本人の考え方。
つまり、北枕には別に意味なんかない、ということだ。
ちゃんとした意味のあるのは、吉田松陰のややこしい布団の敷き方の方だ。 けれど、松陰の方は、世間一般から見れば、変質狂(で悪ければ「拘り過ぎ」)にしか見えない。
・・・・ということで、松陰の場合は「足の向き」に論点があり、北枕の場合は「釈迦の故事」に倣う件、が話題になっている。
西に頭が来るようにベッドを百八十度動かして数日。
顔を左に向けたら目の前にドアがある。どうも落ち着かない。
それで時計回りに九十度動かした。
結果、生れてはじめて北枕で寝ることになった。
意外に良いかも。