CubとSRと

ただの日記

北枕

2019年07月17日 | 日々の暮らし
 先日、ベッドの頭側を東向きから西向きに換えた。単純に気分転換のためだ。
 単純に気分転換、と言っても、何しろベッドを置いてから20年間、向きを変えたことは一度もない。
 初めてベッドを置いた時、「北枕は良くない」、ということは聞いていた。
 「じゃ、日の上る方向に頭が向いていれば文句はあるまい」
 ということで、頭は東向きにしようか、となる。
 東向きなら部屋の入り口が足元の方になるから、安全面でも、その方が良かろう、という気になっていた。考えて見りゃ「安全面が云々」って家に鍵は掛けても、各部屋に鍵をかけるなんてことはないのに。
 それ以来二十年間、ずっと東方向に頭が来る形で寝ていた。
 この数年間「やはり北向きは良くない」
 とか、逆に
 「いや、北向きの方が良いんだ」
 というような声が聞こえてきて、何故?と余計に思うようになった。
 何しろ、皇居への尊崇の念、祖先の墓・先祖への崇拝の念に篤かった吉田松陰は「皇居には足を向けては寝られない」「祖先の墓に脚を向けては寝られない」、何よりも藩主の居城でもある「萩の城に脚を向けては寝られない」。
 結果、松陰は寝間では厳密に方向を確かめ、布団を畳の縁に添わせることをせず、妙な具合に斜めに布団を敷いて寝ていた、とか。
 この話を聞いた学生の頃は、何とも堅苦しいというか、
 「四角四面な人なんだなあ。変質狂みたい」
 と少々以上に呆れたことを覚えている。
 けど、まあ松陰の、そういう考え方自体はそれなりに筋が通っているわけだから、一概に馬鹿にはできない。
 周囲の目ばかり気にして、自分の意志を貫けないことの多い一般の人に比べたら、筋の通った理屈と信念で以て断行するわけだから、却って「立派だ」と言えるかもしれない。
 これだって「敵千万と雖も我征かん」、だ。
 これに比べたら「北向きはダメ」にしても「いや、北向きこそ正しい」にしても、ちゃんとした筋の通った説明をしなければ、全く人の考えとは言えない。
 そして理由の明らかにされない(或いは理由の説明を拒む)教条に、唯々諾々と従うのは人の採るべき道ではない。「アベガー」、「ジミンガー」、「アベ政治を許さない!」、「自民党、感じ悪いよね」、みたいなのがそうですよ。ちゃんとした説明による理解があれば、スローガンなんて要らないわけですから。
 あ、また久し振りに脱線。
 「北枕は良くない」。
 最近になってやっと理由を聴けた。
 釈迦が亡くなる時、「北に向けて寝かせてくれ」と言ったのだという。
 そうして、その姿勢で横になったまま、息を引き取るまで法を説いた。
 そういう事実があって、
 「お釈迦様の姿勢に倣おう(あやかろう)」
 とか
 「お釈迦様が亡くなった時の姿勢だから、(死ぬときでもないのに、北枕は)良くない」
 という正反対の解釈が成立した。
 「我々凡夫もお釈迦様にあやかって北枕で寝れば、賢くなるかも」。
 この「あやかって」、がいかにも日本人の考え方。
 で、その反対である「北枕は良くない」というのは
 「あんなに偉い人でも亡くなる。その人が北枕で亡くなった。死は穢れであるから一番偉い人が北枕で亡くなったのなら、それだけは生きている者は真似すべきではない。」
 死を忌み嫌うこの考え方も又日本人の考え方。
 つまり、北枕には別に意味なんかない、ということだ。
 ちゃんとした意味のあるのは、吉田松陰のややこしい布団の敷き方の方だ。 けれど、松陰の方は、世間一般から見れば、変質狂(で悪ければ「拘り過ぎ」)にしか見えない。
 ・・・・ということで、松陰の場合は「足の向き」に論点があり、北枕の場合は「釈迦の故事」に倣う件、が話題になっている。
 
 西に頭が来るようにベッドを百八十度動かして数日。
 顔を左に向けたら目の前にドアがある。どうも落ち着かない。
 それで時計回りに九十度動かした。
 結果、生れてはじめて北枕で寝ることになった。
 意外に良いかも。




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「長征」って、実は・・・・・。

2019年07月15日 | 重箱の隅
 「長征」。
 苦しく、長く続く敵軍征伐のための行軍。敵ってのは東北部に跋扈する盗賊集団や馬賊なんだろう‥‥と思っていた。
 けど、なんかおかしい。
 
 Wikiには
 【長征(ちょうせい)は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう。】
 と書いてある。
 江西省と言えば大陸の南部。到着したのは大陸の北部。
 それを直線で移動するのではなく、まず西に向かい、それから北上する全行程1万2500km。
 盗賊集団や民間の自警団である馬賊は、現在東北部とされる満州や内蒙古辺りにいる。
 ということは、これらは共産党軍に敵対する勢力ではない。
 つまり、「長征」に対して漠然と思っていた「長期にわたる討伐戦」という思い込みは全く違っていて、本当はただひたすら逃げ続けていた、ということではないのか。
 「1924年に、コミンテルンは国民党に声をかけ、中国共産党と協力関係をむすばせた。これが第一次国共合作~」。
 それが「国民党の蒋介石による反共クーデターが起こって共産党員が排除され、第一次国共合作は崩壊」。
 「国民党の孫文は、金を出してくれるなら、相手が日本でもコミンテルンでもよかった」けれど、蒋介石はそれを嫌った。
 で、内戦となるが、多勢に無勢。国民党軍によって共産党軍は打ち破られ、逃避行をする羽目になって、勝った国民党軍はそれをどこまでも追撃して~」・・・・。
 「長征」どころか、共産党軍は全くの逃避行、国民党軍は追撃戦。
 これだけでも「あれ?あれぇ~?」なのに、共産党軍はそのさなかに派閥闘争を展開する。それも意見の対立というよりも単なる主導権争い。
 トップになるために実力者を次々に見殺しにしていく、という陰険なやり方を採る。
 そして最後に残ったのは・・・・・。
 以下に、
  「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子
 を部分転載します。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1931年に、共産党は江西省の瑞金(ずいきん)に中華ソビエト政府を設立して、対日戦争宣言をする。
 しかし、それは遠い山間の僻地から宣言しただけで、言うだけなら何でも言える。すぐに蒋介石の国民党政府軍から攻撃されて、共産党軍は瑞金から逃げ出し、あてもない旅に出る。
 これがあの「長征」の実態である。ここから共産党のウソだらけの伝説がつくられていくことになる。
 
 現在の中国共産党の象徴として、毛沢東の英雄譚のように語られる長征だが、じつは毛沢東にとって、長征はライバルをすべて蹴落とす旅だった。ユン・チアンの『マオ』には、ライバル部隊が全滅するようにわざわざ遠まわりをしたと書かれている。
 長征の間も戦いは続き、同志が次々に死んでいく。
 最後に延安に行き着いたときには、出発当初は十万人いた共産党員が数千人しか残っていなかったともいわれるが、実際は三万人が残ったのを大げさに言って美談に仕立てただけである。
 毛沢東が実際に手を下して殺したわけではないが、彼は自分だけ生き残ろうとして、同志をどんどん見捨てていった。言いかえれば、長征を利用して、自分がのし上がろうとしたのである。
 毛沢東のつくった歴史によると、「ソ連帰りやコミンテルンの息のかかったエリート部隊長は、あまりにも教条的でゲリラ作戦に向いていなかった」そうである。
 彼らは勝手に自滅し、作戦上手な自分だけが生き残ったように書いているのだが、じつは見殺しにしただけである。
 この時、外国留学経験もない毛沢東は、コミンテルンやモスクワ帰りの幹部たちから見ればただの田舎者にすぎなかった。そういう有力なエリートたちを、毛沢東は長征の間にすべて蹴落としてのし上がっていく。
 これも毛沢東の好きな『三国志演義』や『水滸伝』の世界である。
 毛沢東は中国の古典にも通じた軍事的天才だが、ということは人命を何とも思わない人物であることにほかならない。慈愛のかけらもなく、少しでも農民に同情する党員はみな粛清されてしまった。
 「民衆のものは針一本盗るな」など共産党軍の軍規を厳しく定めた「三大紀律」と「六項注意」も彼がつくったと言われているが、実際は、良くできているから自分がつくったことにしたのだろう。オリジナルをつくったのが誰だかはわからない。
 自分に不利な人間はすべて口封じするのが毛沢東のやり方だ。中国共産党の党員を再教育する整風運動なども同じである。
 長征は毛沢東によってつくられた美談だったのである。
 
  「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子






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基本、変わらないよね

2019年07月12日 | 重箱の隅
 前回、
 社会主義による革命というのは、『現行の社会体制を否定』し、『新しい社会体制をつくる』
 ということだから、とにもかくにも
 『現行の社会体制を否定しなければならない具体的な理由を見つけ出すこと』
 から始めることになる、と書いた。
 それで、「対華二十一か条の要求」を出した日本に抗議するという五・四運動を起こし、それ(対華要求)を受け入れた中華民国を否定する、という手順を取る。
 何で四年も前のことを引っ張り出したかというと、それしか「具体的に」国を否定すべき理由がなかったから、というのが妥当な線だろう。とにかく行動の基である共産党(=新しい結社)を、作らねばならない。
 そして、先ずは現行勢力と手を組み、段々に現行勢力を浸食していく。
 まずは団結したように見せかけ、実は内部工作を盛んにして現行勢力を乗っ取ってしまう。このやり方は千古不変。トロイの木馬みたいなやり方だが、あんな陽気なものではなく長期にわたって延々と地下工作が続けられる。
 民主党が吸収したつもりだった自民党や社会党左派の生き残り(大半は社会主義思想の持主)が、気が付いたら内部でノイジーマイノリティーとなって「声の大きい者が勝つ」という言葉通り、民主党を内部崩壊に導いた。
 そしたら今度は共産党が、「選挙の時だけ、野党は結束し、強大な自民党に対峙しよう」とやって、気が付いたら共産党の議席が増えただけで、あとはもうさっぱり。
 シナでは「国共合作」がそれだろう。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1924年に、コミンテルンは国民党に声をかけ、中国共産党と協力関係をむすばせた。これが第一次国共合作である。要するに、国民党(中華民国)とソ連が手を結んだのだ。
 何しろ五万人の国民党に対して共産党員はわずか一千五百人だから、ソ連は「共産党に敵対せず、党員を国民党に吸収してくれ」と国民党に圧力をかけたのである。
 国民党の孫文は、金を出してくれるなら、相手が日本でもコミンテルンでもよかったのである。
 国民党の軍隊も共産党の軍隊も、同じ穴のムジナである。共産党の軍隊は農村の秘密結社で、国民党軍は都市の秘密結社という違いがあるだけだ。
 国民党の蒋介石と関係していた青幇(チンパン)や紅幇(ホンパン)は、都市の秘密結社である。どちらも裏社会の犯罪組織だったから、金を持っていた。
 だから、中国共産党にとって、都市の金ヅルを得られた国共合作は歴史的に大きな意味を持っていた。共産党は、そのネットワークを使って広がっていったのである。
 ところが、国民党の蒋介石による反共クーデターが起こって共産党員が排除され、第一次国共合作は崩壊する。
 ただ、なんとか合作を維持しようとした陳独秀などの共産党指導者もいた。陳独秀だけは日本でマルクス主義を勉強して、マルクス主義の本を翻訳し、論文を書いていた筋金入りの社会主義者である。なんとか国民党と一緒に、農民暴動などではない、本当の社会主義を打ち立てようと真面目に考えていた。
 そこがイデオロギーなどどうでもいい毛沢東とは違っていた。
 最終的に陳独秀は共産党から除名されてしまう。

 「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子
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 ここでやっぱり出て来るのは
 「国民党の孫文は、金を出してくれるなら、相手が日本でもコミンテルンでもよかった」 
 という一文。
 これまでも孫文を評するに「清濁併せ吞む」という言葉が能く使われてきたけど、良く言えば「なりふり構わず目的のために邁進する」、早い話が「目的のためには手段を選ばない」このやり方。「節操がない」と表現するだけでは奇麗すぎる。
 三民主義にしたって、実のところ、言いっ放しで具体的に(事務的に)取り組んだのか、というと????だろう。「大ぼら吹き」と言われる所以。
 対する共産党の方はやはりすごい。工作は延々と続けられる。
 ただし、社会主義革命達成のために真面目に取り組んだ者は、これまた見事なくらい失脚する。
 いや、失脚させられる。
 そして最後にもう一つ。
 彼らは社会主義をソ連から学んだのではなく、日本で、或いは日本語を通して学ぶしかなかった、ということ。
 ドイツ語だってロシア語だって分からないんだから、先ずは留学先で学ぶ。留学地は日本しかない。
 社会主義思想に限らず、西洋の学問全てを、日本語に翻訳されたもので学ぶしかなかった、ということ。
 孫文だって政治や国家についてアメリカで学ぶことはできなかった。英語ができるようになる(英会話)ことと学術書を読めることは同じではないからだ。
 (専門分野の色々な概念は、それに取り組んでいくうちに学習し、理解するものだから。)
 


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五・四運動

2019年07月11日 | 重箱の隅
 「馬列」社会主義史観。
 「馬列」とは「馬の列」ではなく、「馬克思・列寧(マルクス・レーニン)」の「馬(マ~)・列(レー)」。
 とにもかくにも「前政権を含む社会体制」自体を全否定しなければ、社会主義国家は成立し得ない。
 「前政権を否定する」だけなら、それは「革命」で、それならシナの王朝は経験豊富。国の興亡だって、まあ、革命みたいなもんだ。
 けど、社会主義革命となると、「社会主義」によって行う「社会体制の否定」と「新しい社会の建設」なわけだから、解体時に出る「廃材」は、人も物も大変な量になる。
 またえらく見当違いな方向に行きそうだけど。
 取り敢えずは共産党を作らねばならない。そこで社会主義革命を実行すべき理由を提示しなければならない。
 単に何となく「今の社会はダメだ!」と叫んだって誰もついてこない。具体的な理由を挙げて「なるほど」と思わさなければならない。
 理由を見つけたら
 「ほら!これを見ろ!こんなに酷いことをされて口惜しくないのか!民族の誇りはないのか!同志よ。手を取り合って立ち上がろう。革命だ!」
 という方向に持って行く。
 敵を見つけて「みんなで戦おう!」と煽る。「反対、反対!」と叫ぶだけのやり方と違って、「叩け!倒せ!やっつけろ!」とアジテートする。
 当然「話し合おう」なんて大嘘だ。話し合いで否定したって、相手が納得するわけがない。最後には実力行使で否定する。
 全世界の共産党はみんなこれをやる。とにかく現行の社会体制を否定しなきゃ何も始まらない。
 ‥‥というわけで、シナでは共産党をつくるきっかけに、4年も前の「対華二十一か条の要求」を学生に教え込んだ。
 「まずは眼前の敵日本に団結、結束して立ち向かおう!」と。
 何故、学生か、って?
 学生しか字を読めないんだから。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で、山東省の旧ドイツ権益を日本が継承することになったのに抗議する「五・四運動」が、ソ連のコミンテルンの煽動によって起こった。
 
 現在の中華人民共和国では、この五・四運動は日本の対華二十一カ条要求に対する抗議運動であり、これを中国の近代化とナショナリズムのスタートと位置づけ、五月四日を「国恥記念日」としている。
 しかし、対華二十一カ条要求は五・四運動の四年も前のことである。二十一カ条の要求が出された時点で民衆が決起し、この日を記念日にしたなどということはない。これはコミンテルンがそそのかして、四年前の出来事をうまく利用して運動をあおっただけだ。
 そもそも日本が二十一カ条を要求したのは、清朝と結んだ条約の継続・確認を袁世凱に対して求めなければ投資を続けられなかったからである。
 「二十一カ条の要求は、民衆レベルで日本と中国のあいだに決定的な溝をつくり出した」などというのは後からのつくり話にすぎない。
 戦後の日本の無知な学者、共産党シンパの人たちが、そのつくられた歴史を鵜呑みにしているだけの話である。
 五・四運動の時点では、まだ毛沢東や周恩来、鄧小平らは登場していない。もしそのような記述があるのなら、いかにも関係があるかのように粉飾しているだけである。五・四運動を述べた文章のすぐ下に続けて、毛沢東について書いたりして、都合よく結びつけてしまうのだ。
 五・四運動は北京大学の先生たちと学生たちによる運動で、主役は陳独秀と李大釗だった。
 ただ、毛沢東は北京で陳独秀に会ったことがあり、陳独秀の雑誌『新青年』に、「国語問題」と「女子問題」についての論文を載せている。
 毛沢東と陳独秀はそれだけの関係なのだが、それを五・四運動の話に並べて書くと、いかにもつながりがあるように見えるわけである。
 中国共産党は五・四運動の後の1919年にコミンテルンの指導のもとで発足している。
 結成したのは陳独秀と李大釗で、毛沢東も第一回党大会に参加したということになっているが、腑に落ちないことがいろいろある。
 実際には、毛沢東が参加したのは第二回大会からだったと私は思うのだが、今ではこれが第一回ということになっている。しかも、その時は毛沢東はまだ下っ端で、口も利かずに大人しくしていたようだ。

  「中国・韓国の正体」~異民族がつくった歴史の正体~
  宮脇淳子

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バカだから?

2019年07月09日 | 重箱の隅
 小説は好きで、能く読んでいたが、それはただ「読み物」が好き、というだけの話で、研究心なんてこれっぽっちもなかった。
 小説以外の本なんかは読まない。その上、ほとんどの本は一回読んだら終わり。エッセイなんて面白くもなんともないので端(はな)から読まない。
 
 そんな奴だから、学術書を何度も読む、読んで深く理解しようとする、なんてことは全くなかった。
 小説だって難しそうなところは飛ばして読んでいたくらいだから、本当のところ、作者が何を言いたかったかなんて考えもしない。全然違った解釈をしていたなんて日常茶飯事。
 勿論、だから読書感想文と言う奴が何よりも苦手。
 これだから、小中高と、或る意味、学術書の入門書でもある教科書なんて、一回も読まない。
 大体、そんな風に「読む」姿勢そのものがなってない。
 当然、教科書を面白いなんて思ったことは無いし、小難しいことが書かれていて、それが分からないのは単純にバカだから、と思っていた。
 何でバカか、というと歴史なんか特に或る事件についての経緯なんかが書いてあるわけだけれど、「その結果はこうだ」と書かれているところまで行くと、「え?何でそうなるの?」としか思えない結論が書かれていることが多かったからだ。
 丁寧に書いてあるんだけれど、結論になると妙にぼんやりする。
 「こうだから、こうなった」ではなく「こういうことがあって、それで、こうなって、こうなった」と書かれている。「~だから」という説明の形態をとらず、ひたすら事実を並べて、「結論はこれです」、と結論までも「並べる」。
 「説明」ってのは必ず「だから」とか「それ故に」となるんじゃないのか?
 「こういうことがあって、それで、こうなって、こうなった」ってのは徹頭徹尾説明のみ。つまり、結論までもが説明のみ。論理展開が、ない。
 それを分からないのは、ただただ、バカだから、と思っていた。
 先日来、何度も部分掲載している宮脇淳子氏の本を読んでいて
 「あれ?習ったことと違う。習った時は結論が違っていたし、モヤモヤしてよくわからなかったけど、この人の書いているところを見るとちゃんと納得できる。何が違っていたんだろう」
 と思い始めた。
 で、気が付いたのは「やっぱり、史観が違うんだ」ということ。
 そして、
 「歴史学者は人心を知らない」と書いたこともあったけど、今は
 「多くの歴史学者は本当は歴史の研究が好きではないんじゃないか」
 、と。
 一言で言えば
 「そこに愛はあるんか?」
 「史観」が違うんだから、愛は、ない。
 更に、この際の史観は「馬列」社会主義なわけだから。
 今回は「対華二十一箇条の要求」のところを転載しようと思っていたのだけど、長くなり過ぎたので、次回。
 あ、「対華二十一箇条の要求」への抗議行動ということで学生が「五・四運動」を始めた、と習ったでしょう?
 ところが、「二十一箇条の要求」が出されて、「五・四運動」が起こるまでに四年も経ってる、って知ってました? 
 こんなに間が空いているのに、「学生が中心になって~」 って何かおかしいと思いません?
 では転載は次回に。






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