CubとSRと

ただの日記

寒い

2022年01月21日 | 日々の暮らし
 1月15日(土)

 木曜日は素振りをしてから寝た。こんなことまで書かなければならなくなるとは。全く何だか「記録式ダイエット」でもやってるような気がする。
 でも、思い出した時に書いて置かねば、自分の都合の良いことばかり思い出して、物事何でも正当化するからね。
 「秘密事項が万に一つでも漏洩するようなことがあってはならない。しかし絶対ということはない。つまりあるかもしれない。そうだ!議事録を作らなければ良い。そうすれば忌憚ない意見を交わせる!なんて頭が良いんだ!」
 ということで議事録を作らなかった政権があったなあ。
 個人の身体と国政一緒にしちゃいい迷惑だろうけど、「修身・斉家・治国・平天下」、だからね、大小はあったって理屈は一緒。筋が通っていれば守らなきゃならない。守ることが実現化への第一歩だ。

 それなりに怠けることは大事だけど「怠けることは大事!」って怠けてばかりいると、退化するばかり。これは身体も身体の一部である脳細胞も同じこと。努めている中で少~し怠けなきゃ。怠けるのも「治に居て乱を忘れず」、だ。
 などと、怠けながら思っている。怠けるのがほぼ百パーセントなんだけど。
 炊事だけは怠けると死んでしまうから、それなりにやる。

 
 金曜日。
 天気予報の通り、小雪のちらつく一日で、もう寒くて寒くてとてもじゃないけど外に出る気になれない。
 ・・・と相変わらず怠けていたのだが、おやつがない。買いに行かなければ。
  で、夜、それも7時半を回ってリュックを背負って出掛ける。散歩にもなる。一石二鳥だ。
 店に着いたら、表に出してあった商品やカゴを片付け始めていた。

 念のために店員に「まだ大丈夫ですか」と聞く。9時までは、やっているらしい。シャッターには閉店時間が書いてあるのだが、その時間を読めるのは当然のこと、シャッターの降りている時間。そんな時間に店の前を通ることは年に一回あるかないか。加えてそんな時間に閉店時間を確認するため、シャッターをまじまじと見る、なんてこともない。名探偵にはなれない。

 土曜日。
 8時半をだいぶ回って目が覚め、ストレッチなどをしていたら9時半近くになり、7時半に炊き上がっていたはずの御飯を2時間近く経って茶碗に小分けにする。
 小分けにして置いて、二杯を食べてしまう。
 そのくらいなら初めから丼に入れておけば良いのにと自分でも呆れながら、「まあ、それも気分だから」と納得させる。

 2時を過ぎてから買い物に出る。ホームセンターでビニール袋を買い、次にいつもの店でコーヒーを買い、道の駅、ドラッグストアと回って帰ったのは5時過ぎ。まだ明るい。
 冬至を過ぎて三週間。随分日が長くなった、と思う。
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今度は「日本人が土地を奪った」について

2022年01月20日 | 心の持ち様
 前回「創氏改名」のことについて再掲載しました。
・「身分制度から脱却できる」
・「奴婢から『人間』になって人としての生活ができる」

 貴族や両班たちはそれ以下の層を使役する権限がなくなります。
 「姓」を得た(新しく創ることができたわけですから)彼らはもう支配者層の言うことを聞かず自分の生活を営むことだけに全力を注ぐことができる。

 「創氏改名」は結果として身分制度を破壊することになるから、当然自分たちの生活ができなくなる貴族や両班等の支配者階級からは猛反対されます。加えて、創氏改名した元下賤の者と同じになるなんて屈辱以外の何物でもない。
 これは日本だって士農工商から士族・平民と一括りになった明治時代、穢多・非人とされていた最下層を「平民」にしようとしたら元農工商の人々が猛反対し、やむを得ず「新平民」という階層を作らねばならなかったことと感情的には同じでしょう。
 「士農工商の廃止」だって日本の辿り着いた考えの一周先を行くものだったんだから、「創氏改名」なんてのは、朝鮮の一般常識の二周も三周も先を行く考え方だったと言えるかもしれません。

 その「創氏改名」が「日本人が朝鮮の土地を奪った」というとんでもない誤解を生むことになる、と。「事実」は「日本が土地を作った」。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「併合と習ったはずなんですが」
           2010.10/24 (Sun)

 先日の菅(かん)談話。返す返すも残念ではあります。
 概容は総理でなく、官房長官が作ったものと確信していますが、いずれにせよ民主党に問題があり、もっと言えばそれを選んだ日本国民がもっと反省すべきことです。

 にもかかわらず内閣の支持率は60%もあり、尖閣諸島に関する一連の事件応対の不手際があっても、まだ45%近くある。
 反省は全く為されていない。
 気になるのはNHKをはじめ、大半のメディアはこの談話に関してすぐ「朝鮮の植民地化」というような表現をすることです。
 はて?いつ日本は朝鮮を植民地にしたろう?

 学校では「日韓併合」、「韓国併合」と習ったはずです。
 それどころか、この日記の初めの方で韓国が独立国になったのは日清戦争の講和条約(下関条約)第一条で、日本が清国に朝鮮を独立国として認めさせた時が初めてと書きました。「棚からぼた餅」の独立だったと書いた覚えもあります。

 植民地というのはそこに宗主国の人間が住み、現地にある資源や産物等を、入手、或いは収奪することで利を得るためのものではなかったですか。
 何ら手を加えることなく、雨が降れば氾濫を繰り返すだけの川原に、「人」として名字を持たない「奴婢」が住む。
 両班層は生産をしない。だからといっていざという時に我が土地と領民を守るために武器を持って戦うわけでもない。
 商人は居ても、とにかく生産業、工業、といったものが家内制手工業から先へ進まない。
 植民地にする旨みのかけらもないところに、日本は河川整備、学校建設、戸籍作り等、国家予算の相当額をつぎ込んで生活を安定させようとした。
 これのどこが「植民地化」なんでしょう。

 「国家百年の計、と言うんだから、先の旨味をつくるためじゃないか?」と思った人は、現実の日本を見ればいい。
 そう簡単にはできないからこそ、「国家百年の計」なんて理想に近い目標をあらわす言葉が使われるんです。国内でさえできないのに、国家予算まで削って朝鮮のために、ですよ?

 これはやっぱり、身近な感覚で言えば「新興アジアの優等生として西欧列強に評価してほしい」、という自意識の問題でしょう。司馬遼太郎は、そのようなことを書いています。

 「併合だったら、何で創氏改名、皇民化教育なんてやるんだ!日本人が土地を『買い漁っ』て、地主になっているじゃないか!」と言う人々がいて、実際それは大きな問題みたいですが、「日本人が知ってはならない歴史」の著者、若狭和朋氏は、そのトリックを実に鮮やかに説かれています。

 先に述べた河川敷。洪水時に冠水を繰り返す、であるが居住するところ。そこを整備したのは日本です。そこに住んでいたのは?。

 戸籍をつくる時、族譜を持たない彼らは、「創氏」するしかありません。
 住所は、「元、河原」。日本によって整備された元河原は、「元、河原の住人」の土地になります。彼らが名字を持ち、地主になるわけです。
 その名前ですが、朝鮮名をつけようとすると、族譜がどうのこうのという問題が出てくる。
 ならば、日本風の名字をつければ良い。それなら族譜の心配はしなくていい。これが「創氏」の実態です。
 「日本名の方が都合が良い、便利だ」、というのは、「日本での生活が」というより、「朝鮮の身分制から解放される」ということなのです。

 名字のなかった者が日本風の名字をつけ、日本に整備してもらった「洪水の心配のなくなった河川敷(=土地)」に住み、そこを田畑にして住所もそこにする。朝鮮人であるよりも、日本人になった方が良い。
 ・・・・・つまり、日本人が河辺の田畑を持った地主になる。

 実情は、だから「日本人が土地を買い漁って」ではなく、日本によって名前と土地を同時に手に入れた元奴婢が「日本人になった」ということだ、と。

 さらに、つい思い違いをしてしまうこと。
 「併合」・「合併」というと「一緒になる」という意味だから「対等だ」、と無意識に思っていませんか?
 「しかし」と若狭氏は言います。「会社が対等合併ということはほとんどない」
 国もそうですね。国力が同じ国同士、合併なんてしますか?会社も。
 対等だと思うから「同じでないとおかしい」、となる。
 けれど日韓の合併後、軍人、政治家等、元々の両班層から出た人は、そのままの姓を名乗って軍、国会(帝国議会)で活動しています。
 対等ではなくとも合併したら同じ国民だから、別に朝鮮人であることをやめる必要はない。
 本来それまでの国力に差があるのだから、その差は受け入れ、中で力をつけ、同じにする。それは併合された方の努力すべきことで、実力のある方(併合した方)はそれを阻止するものではない。
 そんなこと(実力のあるものが威張っている)をすれば、周辺国に与し易しと思われ、ちょっかいを出されるだけです。(実際、この時は、ロシアも手を出しかねています)
 
 元河原者だった、「創氏」して日本風の名前を持った地主は、朝鮮人として生きるより、日本人として生きた方が良い。そりゃそうでしょう。初めて身分差別から解放されるのですから。

 朝鮮を保護国にし、実力がつくまで見守り、勿論援助して実力がついたら同盟国となって、「①属国に戻そうとするシナ」「②領土化を謀るロシア」に対抗すれば良かったのですが、ずっと属国としての月日を重ねてきた朝鮮と、蛮族の地としてうち捨てられていた台湾とは、その歴史が全く異なっているが故に、その後の在り方は全く違ってしまいました。
 「ハイハイ」も満足にできない赤ん坊を、日本は無理矢理立たせ、手をつないで歩こうとしたのではないでしょうか。






 
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名前について

2022年01月19日 | 心の持ち様
 12年前の「今日」の日記です。以前のブログからこちらに転載したので一度は掲載しているのですが。
 その際は毎日4,5篇転載したのでほとんど人目に付くことはなかったのではないかと・・・。

 きっかけとして使わせていただいたブログは今どうなっているのか分かりませんが、朝鮮に関するいろいろなことを教えていただきました。
 教科書で学んだ「創氏改名」のことも、学ぶことすらなかった「独立門」が建てられる前に同じ場所にあった「迎恩門」のことも、朝鮮の見方を知る上で大変な勉強になったと今でも思います。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「名前について」
           2010.01/19 (Tue)

 「Reconsideration of the History」というブログに、
「コリアンに問う!!民族固有の名前を捨て去ったのは自分たちではなかったのか?」
という小論文があります。
 意外と知らないことではないかと思ったので、ちょっと紹介してみます。

 その前に。
 まず、この題名から分かるように、学校では
「日韓併合時、韓国は日本になったのだからと、名前を日本風のものに『直す』政策が採られた。これを『創氏改名』と呼ぶ。学校では日本語を教えた。結果、韓国の文化は途切れ、衰退していった」
 こんな授業が行なわれた筈です。

 これ、間違いではありません。「そのとーーり!」なのです。
 そして我々は罪の意識に悩む。
 「名前も文化も奪うなんて、我々は韓国、朝鮮に対してなんてひどいことをしたんだ。いくら謝っても足りない、万死に値する。我々の先祖の罪は我々が償っていかねばならない!」

 大和民族というのはなんて素晴らしい民族!そして、百万回死んでも直らない「お人好し」民族!。
 あほらしさを通り越して、感動しすぎて泣けてくる。こんな神様か仏様のような民族の存在は人類の奇蹟だ。日本人に生まれて本当に良かった。
 
 取り乱してしまいましたが、本題に戻ります。
 これを習った時、「?何か変だぞ?」とは思っていたのです。でも、何が変なのか分からなかった。

 私の子供の頃、隣の家も、そのまた隣の家も(と言っても、その二軒だけですが)朝鮮人の家でした。長屋の一軒と、大きな、邸宅とまではいかないけれど裕福そうな家の違いはありましたが、両家とも通称(日本名)を名のっていました。勿論、ごく普通に近所づきあいをしていたし、彼らの方も地元民として普通に生活をしていた。そして、結婚式などは朝鮮式のもので、旧来の文化をなくしたわけでもない。
 何よりも、当時の(私の周囲の)日本人にも、彼ら朝鮮人にも、「名前、文化を奪った」とか「名前、文化を捨てさせられた」とかいった意識は全く感じられなかったのです。
 
 そうです。罪の意識を持つようになったのは、学校で教えられるようになってから、なのです。

 上記のブログには「創氏改名」の締め切り(?)が近い、と改名を勧める(命令、促す等でなく)宣伝ビラが載せられています。
 「これを過ぎると改名はできませんよ。」とは書いてあるけど、改名をしなかったら、罰が与えられるというものでもないらしいのです。
 意地の悪い見方をすれば、「そう(改名)せざるを得ない状況に追い込んで行っていたんじゃないか」とも言えます。そうとっても不思議ではない。ただ、帝国議会にも帝國陸軍にも、朝鮮名の国会議員や将官は多数居たそうですから、やはり「強制して改名させた」と言うのは無理がある。

 更に、改名しなかったからと言って、日本に不利益になるわけではないし、改名したからと言って日本に利益があるわけでもありません。意識の低い、日本人一般庶民がいじめの対象にする可能性はありますが。
(ただ、そんな人々は改名してもいじめるでしょう?「あいつは朝鮮人のくせに日本人名をつけて」って。)

 実は問題はここではない。創氏改名は日韓併合の後、初めて行なわれたのではない、のだそうです。それよりもずっと前、それはもうはるか昔から行われていた。
 日韓併合時の場合が強制ではないように、朝鮮民族は唐の時代からそれまでの朝鮮固有の名前を自分の意思で「捨てている」のです。

 新羅は唐の力を借りて朝鮮半島を統一しました。統一後、独立国として生きようとしたのですが、唐が許す筈もなく、その強大な軍事力の前に破れ、属国となったのです。それ以来、高麗も、李氏朝鮮も、シナの属国として生きることを余儀無くされた。そして人々の名前は、元の時代にはモンゴル風、だったのが以降はシナ風の一字姓が当たり前になり、大韓帝国の時代まで続いたのだそうです。
 
 ということは、
「日本が我々朝鮮民族の大事な名前を奪った」
と主張し非難する以前に、はるか昔に、自らが名前を捨てた過去をどう捉えているのか、ということの方が問題なんです。
 気の毒なのは分かっています。大陸につながる半島の住民でなければ、千数百年にわたって属国だなどという理不尽な歴史は持たずに済んだのかもしれません。日本のような島国だったらとは思います。
 でも、だからと言って、偽りの歴史を持とうとすれば、過去はともかく肝腎の「未来が歪んでしまう」ことを、考えなければならないし、我々も偽りを受け入れてしまえばどうなるのかということを、考えなければと思うのです。

 我々もまた、偽りの歴史を持てば(受け容れたなら)、未来を歪めることになる。
 天皇陛下が、どこの国とも公平、平等に接するよう勤められるのを思い出すまでもなく、人間の尊厳を認めるなら、国と国との間は発展の度合いに関係なく常に対等であるべきで、土下座外交も朝貢貿易もあってはならないのです。
 偽りの歴史は、押し付けることも受け入れることも、歪んだ未来を拓くことにつながります。それは当事者の二国間にとどまらず、世界を歪めることにもなりかねません。




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1・17と3・11と

2022年01月18日 | 心の持ち様
 「誰も責任を取らない」
            2012.06/09 (Sat)

 大飯原発再稼動へ。
 その前に国会の事故調査委員会に菅(かん)前首相が招致され、質問に返答したわけだが、あまりの無責任、というより、責任転嫁振りに唖然とするしかなかった。
 しかし、翌日は「自己弁護だ」、とか「弁解ばかりだ」とかいった記事が新聞に載る一方で、テレビなどでは「国の責任として陳謝した」と報じるのが目立った。
 どちらが正しいのか、発言の初めは以下の通り。

 「原発事故は、国策として続けられて来た原発によって引き起こされたものであり、最大の原因は国にあると考えている。事故が発生した時の国の責任者として、この事故を止められなかったことを改めて心よりお詫びする。」

1、国に全ての責任があるのだから、偶々総理大臣だった者としてお詫びする。本当はお詫びなんかしなくても良いのだけれど。
2、国策である原発の、事故の責任は、私の本意云々などに関係なく、全て私の責任です。

 同じようにまとめても、正反対のものができる。
 言葉としては確かに
 「(事故が発生した時の)国の責任者として、(この事故を止められなかったことを改めて心より)お詫びする。」
 と言っている。
 「~国の責任者として~お詫びする。」

 まあ、報道には両方あって良かろう。それぞれが(きっと)信念を以って、の報道姿勢から、なんだろう。
 その両面を見て、国民は自らの意志でどっちが正しいと思うか考える。
 それはあるべき民主主義社会の姿だと思う。賢人も愚者も同じ社会の一員だ。
 
 ただ一つ気になるのは、それ(事故調査委員会での返答)以降、菅(かん)氏のことを誰も批判しなくなった、ということだ。
 ・・・なんて書いたら
 「そんなことはない!ずっと批判を続けている!」と怒る人はたくさんいるだろう。実は私もそう思う。批判が止んだわけではない。

 けど、あれ以降、批判が新聞に載り、テレビで繰り返しの放送が為されていますか?
 つまり、あの国会招致以降、新聞もテレビも報道しなくなっただけなんだけど、
 「もう済んだことだ。ニュース的な価値はなくなった」
 とばかりに、報道を止めてしまったんではないですか?
 「いやいや、そんなことはない。週刊誌は今でもやっている」
 やってますよね、確かに。でも国民は?反応しなくなったんじゃないですか?


 十五年前、兵庫県南部地震が起きた。淡路、神戸、阪神間を中心に大災害をもたらした。
 ここまで破壊されるのか、と思うくらい徹底的に叩き潰され、そこら中に火の手が上がる。商店街のアーケードの鉄骨は、高熱のために飴の様にまがり、地下鉄の上を併行する道路両側の電柱は魚眼レンズで撮影されたかのように揃って歩道側に傾いてしまった。
 そんな写真と、毎日増えていく死者の数が、連日新聞の紙面で踊っている。

 地元紙の仮設住宅建設のニュースに、「復興の槌音高く」の見出しの文字が躍っているのを見た時、不覚にも涙がこぼれそうになった。
 連日、これでもかというくらいの悲惨な状況が報じられる中だったから、余計そうだったのかもしれない。

 それが次第に減って来る。関連の死も含め、6500人近い人が亡くなったけれど、「忘れてはならない!」と叫んでいた新聞が、テレビが、徐々に震災の記事を減らし始めた。しかし、それでも震災の記事は毎日、紙面にあった。

 そして或る日突然、震災の記事が紙面から消えた。別な大事件が起こったからだった。地下鉄サリン事件だ。
 それからはオウム真理教事件一色になった。
 一月十七日の地震。三月二十日のサリン事件。その間、僅か二ヶ月。



 今、そのことを思い出して「メディアには節操がない!」と怒る気持ちはない。
 メディアは人々の欲するものをより詳しく伝えようとする。「そのために」人々の欲するものなら、人々が喜ぶようにより大袈裟に伝えようとする。
 だから、中には捏造もあるだろうし、歪曲もあるだろう。
 けれど、根っこには「それを求める人々=国民」がいることを忘れてはならないと思う。

 街頭インタビューで、「ええっ?」と思うような政府擁護の意見を聞く。それが多ければ、「あんなのやらせじゃないか?仕込んでないか?編集してるんじゃないか?」などと思う。
 反対にそんな中に、一人二人自分の考えと同じようなことをしゃべったのが入っていて、でもそんなのはごく少数で、という時、「編集して一人だけ、にしたんじゃないか?」と思ったりする。

 メディアは彼の節操よりも人々の欲するところにおもねる。
 「何が何でも脱原発」と言っていた人の声より
 「もっと冷静になれよ。今すぐの大停電や、経済の落ち込みはどうするんだ。」という意見が多くなれば、そちらにシフトする。

 メディアそのものを、(又は、中の一企業を特定して)叩くことで、世論は変わるのか。却って世論が変われば、特定などしなくても、メディアの姿勢は(それこそ節操がないのだから)豹変するのではないか。

 テレビでコメンテーターが言う。
 「誰も責任を取ろうとしない」
 それはそのままコメンテーターにも返って行く。
 勿論、新聞やテレビに頼るばかりで自身で考えようとしない我々、日本国民にも。

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松下村塾・吉田松陰 補

2022年01月17日 | 心の持ち様
 「或る先生の思い出」
           2015.04/26 (Sun)

 できの悪い学生で、90分の授業をちゃんと聞く辛抱がなく、聞いている話も私には少々以上に難しい。
 で、当然のように居眠りをする。それも「舟を漕ぐ」なんて芸当はできず、気づいた時は完全に土左衛門状態になっていて、教室の時計を見ると30分近く針が移動している。
 何が情けないといって、それでも授業の時間はまだ三十分くらい残っていると気づいた時の情けなさときたら。
 恥ずかしいのと脱力感と絶望感が大挙して押し寄せてくる。

 まあ、ほとんどの講義(まだ入学したてで、講読も演習もない)がそんな具合で、でも折角高い金払ってもらって来させてもらってるんだからちゃんとしなくちゃ、と殊勝な思いが頭をよぎり、そしてまた、講義についてゆけない頭は睡魔に容易く打ち破られ・・・・。

 そんな中でたった一つ居眠りをしない、全く眠くならない講義があった。「歴史」という講義だった。(何もなし。ただ「歴史」)
 内容はその先生の講演を冊子にしたもので、その本を一年かかって習う、というもの。
 そしてその冊子が「吉田松陰」について講演した(らしい)ものだった。

 たった一回、一時間半かそこらで吉田松陰について概容を述べたものを冊子にした。それを一年かけてやる。何ともはや、な「歴史」、だ。
 「大体そんなもの、一年もかかるわけないじゃないか。これはつまり、あれだな、書店に並ぶこともない本を数百冊だけでも教科書として買わせれば、それなりの収入になる、と。大学の先生の小遣い稼ぎか。」

 いやらしい考えの持ち主である。先生が、ではない。自分が、だ。
 それは最初の講義の時に気付かされた。つい一ヶ月ほど前までは高校生だったといっても、その人の風体、物腰、顔付きを見れば、或る程度のことは分かる。

 年季の入った地味な背広に骨と皮だけのような痩躯を包み、口元には笑みを浮かべながらも小さな目はしっかり見開かれている。決して圧力に屈することのない迫力がある。
 数冊の本をいつも風呂敷に包んで抱え、一方の手には常にコウモリ傘が掛けられている。

 講義で、この松陰のことを書かれた本はほとんど使われなかった。と言うより、数行読んだら後は先生の話を聞くだけだった。
 「話を聞く」と言っても、吉田松陰は滅多に出てこない。先生自身の事、或いは四方山話で、特に「身振り手振り可笑しく」というわけではないのに話が実に面白く、いつも気が付いたら90分が過ぎようとしている。
 別に落語や講談のような、「芸」といった感じの話しぶりでもない。ごく普通の、やや歯切れの良い話し方、程度なのに何故か惹きつけられる。

 「近頃、肩凝りを感じるようになった。それは机に向かう姿勢が悪かったからだと思う。気を付けていたつもりでも、少しずつ悪いところが積み重なって『肩凝り』として出てきたのだろう。段々に気が緩んで来てるんですね」
 「疲れてくるとやる気がなくなってきます。そんな時に、『これじゃいかん』と『えいっ』と気合を入れるんです」
 「先生は雨が降ってもいないのに、何でいつも傘を持ってるんですか、と聞かれるんですが、講演などに行くと暴漢に襲われるかもしれない。そんな時にはこの傘で『えいっ』と突いてやるつもりなんです」

 そういう話が面白く、全く講義を受けているという気がしない。
 だからあっという間に時間が経ってしまう。何も習ってないような気がするんだけれど、何となく「やるぞ!」みたいな気持ちになっている。
 それでこの「歴史」の講義は人気があった。

 でも、何故「歴史」なのに「吉田松陰」なんだろう。それにこんな薄っぺらい本一冊で、更にはそれをほとんど使わないで、何で「歴史」、なんだ?

 だからと言って誰も文句は言いません。文句を言わないからと言って、「息抜きの時間だ」、と馬鹿にしているわけでもない。ただその先生の話を聞いて(おそらくは)、元気になって「やるぞ!」と思っている。そんな気がします。

 あれから四十年。(どこかで聞いたフレーズですが)
 今はそれが分かります。何故「歴史」、だったのか。何故「吉田松陰」だったのか。

 ・「暴漢が来たら傘で突いてやる」、って実際にするのではない。「(その)覚悟を以て生きる」ということです。
 「傘で突くこと」ではなく、「覚悟」が大事で、自分はそれを通そうと思っている、と。
 (それを実践し、その姿を見せる。まだ大して目の見えない若者には、だから話して聞かせる。)

 ・『これじゃいかん』と『えいっ』と気合を入れるんです。
 (自分で自分を律するというのは難しいようだけど、こんな簡単なことでもしたことはあるのか。)

 ・「肩が凝るのはこれまでに積み重ねてきた悪い癖の故」
 (普段の生活を見詰めないで(日常の研究作業をしないで)、外を批判するだけで、思う結果が出るだろうか。)

 吉田松陰の生き方と重なって見えるのです。
 そして「歴史」とは、そういう目で、そういう生き方で以て見るのだ、と。
 決して己の都合の良いように解釈したり、酷い場合、書き換えたり、するのではない。今の自分(現体制、現政府)を正当化するためではない。
 「歴史」には「人の生き方」を学ぶべきであり、その実践は己の毎日(日常生活)にあるのだ。その「感性」を、その先生は我々学生に教えて下さっていた。


 「吉田松陰は偉大な教育者」、と評すべきでしょうか?
 彼の辞世の歌(注)を見ると、ただひたすらに歴史に学び、立派な日本人たらんと努めた一級の人、と私には見えます。
 弟子達は「彼の生き方」に感じて自らを育てようと努めただけなのだ、と。



 注
 松陰辞世の歌
 「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」


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