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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

これが川中島の霧だ!(妻女山里山通信)

2008-11-05 | 歴史・地理・雑学
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 1561(永禄4)年9月10日早朝、現行歴にすると10月28日とか。上杉謙信と武田信玄による第四次川中島合戦がその火ぶたを切ったとされます。以下は、主に江戸時代に記された史料を元にした川中島合戦の経過です。

 8月16日、上杉政虎が信濃海津城西にある斎場山(妻女山、現在の妻女山は当時は赤坂山)513m一帯を占領し布陣しました。
 8月18日、謙信出陣の報を聞いた信玄が、18000の軍を率いて信濃川中島に出陣します。
 8月24日、信玄が川中島に到着。雨宮の渡から東へ斎場山を囲むように千曲川対岸に布陣し謙信の退路を断ちました。しかし、謙信は動かず夜毎斎場山の山頂の本陣で笛や鼓を奏でていました。
 8月29日、武田軍全軍が廣瀬の渡より順次海津城に入城します。
 9月09日、信玄は軍議を開き山本勘助献策の呉の将軍・孫武による兵法書『孫子』より半進半退の術(啄木鳥戦法は江戸時代の創作)を取り入れ、高坂昌信を主将とする別働隊を西条の入より戸神山脈に向かわせ、斎場山の背後を攻撃させようと目論みます。信玄は8000の兵と八幡原へ。
 9月10日、上杉政虎は、海津城の炊飯の煙の多さで夜襲を察知、主力を率いて深夜に斎場山を下山。濃霧の中を雨宮の渡を渡り、川中島に出ました。そこで、武田軍と遭遇。きびすを返し武田軍に襲いかかりました。
 以下は、ご存じの通りです。第一級史料がないので史実としては語れない川中島合戦ですが、ここ斎場山の麓の村には、陣場平、千人窪、謙信槍尻之泉など数々の地名や伝説が残っています。

 川中島の霧は、秋も深まった頃千曲川から生じ、平地にあふれ出し、やがて山も覆い一面をホワイトアウトさせてしまいます。写真の霧は、まだ浅い方で深い霧のときは5m先も見えない状態が昼頃まで続きます。そして、晴れるときは平地から消え始め、最後に霧は山に残りますが、それもやがて消えていきます。最近は、温暖化の影響か、それほど深い霧はなかなか出なくなりました。なお霧が出る前の夜は手が届きそうなほど星がきれいに見えます。前夜も斎場山の上にオリオンが輝いていました。
 
 斎場山(本当の妻女山)や赤坂山(現在の妻女山)の麓は、現在長芋を掘る作業が始まっています。この妻女山麓の長芋は、火山灰土のものに比べて味が濃いのでファンが多いのです。特に冬越しの長芋の旨さは特筆ものです。とろろはもちろんですが、薩摩揚げや長芋100パーセントのお好み焼きにすると最高です。卵にチーズやベーコンを入れたパンケーキも美味。長芋料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。

 川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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