1561年(永禄4年)に、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄による「第四次川中島の戦い」が起きました。信玄の茶臼山布陣については、江戸後期の『甲越信戦録』が初出で、『甲陽軍鑑』など、それ以前の史料には全く出て来ないことから、後の創作だろうといわれていますが、謙信の妻女山(斎場山)に関しては、「西條山」と漢字こそ誤記されていますが、あちこちに登場するので、史実と思われます。
但し、多くの研究家が誤解している様に、謙信が本陣とした妻女山というのは、現在の妻女山(411m)のことではありません。その南西にある斎場山(513m)のことで、「さいじょうざん」といいます。読みが同じため口述筆記の際に「西條山」と誤記され、それが広まったのです。現在の妻女山(さいじょざん)は、「赤坂山」あるいは単に「赤坂」といいました。尚、妻女山という名称は、戦国時代にはなく、江戸時代に入って創作されたものです。
多くの歴史マニアが、妻女山展望台を訪れ、謙信と信玄の布陣の様を想像すると思います。その際に、多くの人が疑問に思うのではないでしょうか。南北は山と川に守られているものの、東西はゆるゆるで防御は難しいのではと。それは、戦国時代当時の千曲川の河道を理解していないからなのです。山の形はそう変わっていないと思われますが、河道は全く異なっていました。現在の河道は、江戸時代の戌の満水後の大規模な瀬直しによるものです。
添付の地図の青い帯は、戦国時代の千曲川の想像図です。千曲川は上流から、「雨宮の渡」まで深く南流し、ほぼ真北に向かって流れた跡急転して南流。現在の妻女山にぶつかるように流れていました。その後は、廃線になった長野電鉄屋代線に沿う様に流れ、海津城の横を流れて金井山にぶつかっていました。旧長野電鉄が清野で南に大きくカーブしているのは、自然堤防の上に線路を敷設したからです。そして、その北側に千曲川の旧流があったということです。岩野や清野の畑は、中沖とか起目沖とか沖がつきます。昔の人は、畑に行くことを沖に出るとか沖仕事とか言ったそうです。また、盆地につきだした尾根の先端は、笹崎、韮崎、唐崎のように崎という字がつきます。松代城の旧名の海津城の津は、港という意味です。河川交通の要所だった名残です。
つまり、斎場山は、千曲川に囲まれた天然の要害の体を成していたのです。千曲川の北側は広大な氾濫原で、「戌ヶ瀬」、「十二ヶ瀬」、「猫ヶ瀬」というように、いくつにも別れた瀬と河原でした。渡は、西の「雨宮の渡」と東の「広瀬の渡」のみで、その間にはなかったのです。特に重要な交通路だった「雨宮の渡」には、橋があったという説もあります。十二河原という場所が十二ヶ瀬ですが、川が分流したくさんの中洲があったということで、現在も十二の畑という地名で残っています。実際現地で見たり地形図を見ると、土地が褶曲し旧河道が見えてきます。戌ヶ瀬は犬でも渡れる浅い瀬、猫ヶ瀬は猫でも渡れる浅い瀬ということです。当時は堤防もなく、好き勝手に流れていたのです。また、千曲川は一級河川としては類を見ないほど水量の増減が激しく、常に流量の豊富な犀川に押されて南の山際に押し付けられていました。今でも妻女山の下の畑を深く掘ると、犀川の白い土が出てきます。第四次川中島合戦の頃は、渇水期にあたります。寒冷期だったので台風もなかったと思われます。
この千曲川の旧流図を見ると、謙信が斎場山に布陣した理由も頷けるのではないでしょうか。
この妻女山にぶつかっていた千曲川が、瀬直しにより埋められ、谷街道(北国街道東脇往還)が開通するのは、江戸時代の天明年間になってからです。それまでは、大名行列も全て妻女山を超えていたのです。その街道は、清野小学校から妻女山までは、比較的にきれいに残っていますが、妻女山から斎場山、土口への経路はほとんど消滅しています。街道は、清野小学校から赤坂山を超えて一旦岩野に下り、切り崩した笹崎の中腹を巻いていた時期もありますが(江戸後期の絵図に記載がある)、その年代等詳細は不明です。
■千曲川が妻女山(赤坂山)にぶつかって流れてたのは、江戸時代の天明年間まで-----
●1608年(慶長13年)に斎場越の古道は街道としては廃止される(土口村誌)。千曲川旧流は、妻女山(赤坂山)下の蛇池まで流れていたので、街道は赤坂山に登り、一旦会津比売神社に下り、岩野を通って笹崎を巻いていたと思われる。笹崎中腹の巻き道が完成したのだろう。
●1742年(寛保2年)8月1日、2日:「戌の満水」流域全体で2800人以上の死者を出した。妻女山(赤坂山)下の蛇池は千曲川の旧流の一部だった。
●1747年(延享4年)洪水のあと、松代藩は幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許された。また、大規模な瀬直しにより何本かに分かれて流れていたうちの一つを掘り下げて流れを変えようとした。瀬直しで笹崎の先を切り崩して河川工事に使ったらしい。
●1762年(宝暦12年)新しく掘り下げた川筋に川は流れたが、それまでの流れ(古川)にも同時に流れていた。
●1763年(宝暦13年)になっても、松代道は勘太郎橋を渡って南に大きく湾曲しており、地蔵の木から妻女山(赤坂山)を越えて土口に下っていた。(前記のように、赤坂山を超えて一旦岩野に下り、笹崎中腹を巻いていた可能性が高いが、戌の満水で再び笹崎が通れなくなった可能性もある)
●1781年(天明元年)に行われた「国役御普請」により里の谷街道開通。つまり蛇池旧流の消滅。
その際、東福寺小森の石土手も築かれた(小森村国役御普請後仕様帖)。対岸の岩野にも築かれたが、それまで50mほど西に本流があったが、明治43、44年の洪水で東側(右岸)が削られ、石土手は流されたという。
清野の大峯山神社には、天明の普請の際に笹崎から出たという巨岩を祀った「飛石天満宮」があるが、笹崎で大工事があったことが推察される。
●1804年(享和4年)の千曲川災害満水。
●1807年(文化4年)に「国役御普請」「水刎」というものを石を使って30間築いた。
●1847年(弘化4年)7月8日 善光寺地震。地震とその後の山崩れで犀川にできたダムの崩壊で8600人が死亡。善光寺御開帳のため犠牲者が多かった。松代藩が立てた慰霊碑が妻女山展望台の後ろにある。
●1848年(嘉永元年)から嘉永5年 松代藩のお手普請。嘉永年間の小森の史料にも対岸へ集めた石を船で小森の方へ運んだという史料がある。笹崎の石と考えられる。
こうして笹崎の先端は、時代をおって徐々に削られて現在の姿になった。
★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右下で「妻女山」でブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。
★「上杉謙信斎場山布陣想像図」未だかつて誰も描いたことのなかった江戸時代の人が伝える上杉軍斎場山布陣図。江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』(天明年間に開通した谷街道と、妻女山越え、笹崎経由の旧谷街道や、斎場山越えの道も分かる)
但し、多くの研究家が誤解している様に、謙信が本陣とした妻女山というのは、現在の妻女山(411m)のことではありません。その南西にある斎場山(513m)のことで、「さいじょうざん」といいます。読みが同じため口述筆記の際に「西條山」と誤記され、それが広まったのです。現在の妻女山(さいじょざん)は、「赤坂山」あるいは単に「赤坂」といいました。尚、妻女山という名称は、戦国時代にはなく、江戸時代に入って創作されたものです。
多くの歴史マニアが、妻女山展望台を訪れ、謙信と信玄の布陣の様を想像すると思います。その際に、多くの人が疑問に思うのではないでしょうか。南北は山と川に守られているものの、東西はゆるゆるで防御は難しいのではと。それは、戦国時代当時の千曲川の河道を理解していないからなのです。山の形はそう変わっていないと思われますが、河道は全く異なっていました。現在の河道は、江戸時代の戌の満水後の大規模な瀬直しによるものです。
添付の地図の青い帯は、戦国時代の千曲川の想像図です。千曲川は上流から、「雨宮の渡」まで深く南流し、ほぼ真北に向かって流れた跡急転して南流。現在の妻女山にぶつかるように流れていました。その後は、廃線になった長野電鉄屋代線に沿う様に流れ、海津城の横を流れて金井山にぶつかっていました。旧長野電鉄が清野で南に大きくカーブしているのは、自然堤防の上に線路を敷設したからです。そして、その北側に千曲川の旧流があったということです。岩野や清野の畑は、中沖とか起目沖とか沖がつきます。昔の人は、畑に行くことを沖に出るとか沖仕事とか言ったそうです。また、盆地につきだした尾根の先端は、笹崎、韮崎、唐崎のように崎という字がつきます。松代城の旧名の海津城の津は、港という意味です。河川交通の要所だった名残です。
つまり、斎場山は、千曲川に囲まれた天然の要害の体を成していたのです。千曲川の北側は広大な氾濫原で、「戌ヶ瀬」、「十二ヶ瀬」、「猫ヶ瀬」というように、いくつにも別れた瀬と河原でした。渡は、西の「雨宮の渡」と東の「広瀬の渡」のみで、その間にはなかったのです。特に重要な交通路だった「雨宮の渡」には、橋があったという説もあります。十二河原という場所が十二ヶ瀬ですが、川が分流したくさんの中洲があったということで、現在も十二の畑という地名で残っています。実際現地で見たり地形図を見ると、土地が褶曲し旧河道が見えてきます。戌ヶ瀬は犬でも渡れる浅い瀬、猫ヶ瀬は猫でも渡れる浅い瀬ということです。当時は堤防もなく、好き勝手に流れていたのです。また、千曲川は一級河川としては類を見ないほど水量の増減が激しく、常に流量の豊富な犀川に押されて南の山際に押し付けられていました。今でも妻女山の下の畑を深く掘ると、犀川の白い土が出てきます。第四次川中島合戦の頃は、渇水期にあたります。寒冷期だったので台風もなかったと思われます。
この千曲川の旧流図を見ると、謙信が斎場山に布陣した理由も頷けるのではないでしょうか。
この妻女山にぶつかっていた千曲川が、瀬直しにより埋められ、谷街道(北国街道東脇往還)が開通するのは、江戸時代の天明年間になってからです。それまでは、大名行列も全て妻女山を超えていたのです。その街道は、清野小学校から妻女山までは、比較的にきれいに残っていますが、妻女山から斎場山、土口への経路はほとんど消滅しています。街道は、清野小学校から赤坂山を超えて一旦岩野に下り、切り崩した笹崎の中腹を巻いていた時期もありますが(江戸後期の絵図に記載がある)、その年代等詳細は不明です。
■千曲川が妻女山(赤坂山)にぶつかって流れてたのは、江戸時代の天明年間まで-----
●1608年(慶長13年)に斎場越の古道は街道としては廃止される(土口村誌)。千曲川旧流は、妻女山(赤坂山)下の蛇池まで流れていたので、街道は赤坂山に登り、一旦会津比売神社に下り、岩野を通って笹崎を巻いていたと思われる。笹崎中腹の巻き道が完成したのだろう。
●1742年(寛保2年)8月1日、2日:「戌の満水」流域全体で2800人以上の死者を出した。妻女山(赤坂山)下の蛇池は千曲川の旧流の一部だった。
●1747年(延享4年)洪水のあと、松代藩は幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許された。また、大規模な瀬直しにより何本かに分かれて流れていたうちの一つを掘り下げて流れを変えようとした。瀬直しで笹崎の先を切り崩して河川工事に使ったらしい。
●1762年(宝暦12年)新しく掘り下げた川筋に川は流れたが、それまでの流れ(古川)にも同時に流れていた。
●1763年(宝暦13年)になっても、松代道は勘太郎橋を渡って南に大きく湾曲しており、地蔵の木から妻女山(赤坂山)を越えて土口に下っていた。(前記のように、赤坂山を超えて一旦岩野に下り、笹崎中腹を巻いていた可能性が高いが、戌の満水で再び笹崎が通れなくなった可能性もある)
●1781年(天明元年)に行われた「国役御普請」により里の谷街道開通。つまり蛇池旧流の消滅。
その際、東福寺小森の石土手も築かれた(小森村国役御普請後仕様帖)。対岸の岩野にも築かれたが、それまで50mほど西に本流があったが、明治43、44年の洪水で東側(右岸)が削られ、石土手は流されたという。
清野の大峯山神社には、天明の普請の際に笹崎から出たという巨岩を祀った「飛石天満宮」があるが、笹崎で大工事があったことが推察される。
●1804年(享和4年)の千曲川災害満水。
●1807年(文化4年)に「国役御普請」「水刎」というものを石を使って30間築いた。
●1847年(弘化4年)7月8日 善光寺地震。地震とその後の山崩れで犀川にできたダムの崩壊で8600人が死亡。善光寺御開帳のため犠牲者が多かった。松代藩が立てた慰霊碑が妻女山展望台の後ろにある。
●1848年(嘉永元年)から嘉永5年 松代藩のお手普請。嘉永年間の小森の史料にも対岸へ集めた石を船で小森の方へ運んだという史料がある。笹崎の石と考えられる。
こうして笹崎の先端は、時代をおって徐々に削られて現在の姿になった。
★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右下で「妻女山」でブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。
★「上杉謙信斎場山布陣想像図」未だかつて誰も描いたことのなかった江戸時代の人が伝える上杉軍斎場山布陣図。江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』(天明年間に開通した谷街道と、妻女山越え、笹崎経由の旧谷街道や、斎場山越えの道も分かる)