ちょうど二年目に

2007-11-16 22:33:48 | Weblog
清々しく晴れた朝に小さな白い雲たちがユッタリと風に乗り流れていく。
そんな朝に母は旅立った。
父と姉二人の見守る中、苦しみもせず消え入るように息を引き取ったという。

八十二年と九ヶ月の人生は如何ばかりであったろう。
青春の真っ盛りが戦前戦中。
嫁いだ家は裕福とは言い難い農家で働き詰めの生活だったように覚えている。
それでも、近くのゴルフ場で働き始めた頃にはいくばくかの金銭的余裕も出来、夫婦揃って社員旅行などに参加できたころは実に楽しげだった。
そんな母も祖母が寝たきりになったのを機に退社し二年程の介護に明け暮れた。
祖母を看取ったあとはゲートボールが楽しみとなり近所の仲間とマイ・スティックを手にゲートボール場に通った。
母は手首の骨を折っても医者には行かなかった筋金入りの医者嫌いだったが、加齢とともにお定まりの高血圧や糖尿・白内障を患い医者通いを余儀なくされた。
眼球のレンズ交換もしたし、血糖値の検査やインシュリンの注射も自分でこなした。
医者に進められての散歩は毎日欠かしたことがなかった。

そんな母が倒れたのは11月13日の朝。
奇しくも母が逝ったのがちょうど二年後の11月13日の朝。
なにやら不思議な因縁を感じる。
闘病生活の間に十二人いる孫のうち姉の子二人が結婚をした。
式の時にはほとんど言葉も出ないような状態だったが私が撮った新郎新婦の写真を見て喜んでくれた。

金持ちでもないし、名を挙げるような事もなかった。
家のため、子を育てるために働き続けた極々平凡な主婦でしかなかった。
しかし、伴侶や子夫婦・孫と一緒に平凡に暮らしたがゆえに幸せな人生だったんだと思っている。

とうに覚悟は出来ていたはずなのだが納棺の時、荼毘にふす時、精進落としの席での挨拶に涙した。
申し訳ないが義父の時より涙が出た。
コレが血のつながりなんだろうとまた涙が出た。
この世に生んでくれた感謝の気持ちがまた涙を流させた。

庭の片隅にハキダメギクが密生している。
この秋まで名も知らなかった。
どこか遠くからやってきて子孫を増やし、小さな花を咲かせている。
変な名前を付けられ目だたないけど花を咲かせられれば幸せなんだと。
コメント (3)
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