まだ20代の頃、私は同業の母親と折り合いが悪く、独力で介護施設の訪問理容事業を立ち上げようと奔走していた。
目についた施設やデイサービスを飛び込みで訪ねてはにべもなく断られるの繰り返しだった。
そんなある日の夕方、やはり成果なく終わった営業活動から帰る途中、いつもと違った道を通ったことで、山際に少し入った場所に大きな施設があるのに初めて気づいた。
サイドミラーで自分が疲れた顔をしていないか確認してから、正面玄関に足を踏み入れた。
出てきたのはスーツ姿の初老の男性だった。
訪問理容を始めたばかりなのですが、こちらにはニーズはありませんか?
思いがけず広い談話室に通された私は手作りのチラシを渡して熱心に説明した。
ではきみは当面お店を持たずに訪問一本でやって行きたいのだね?
はい、そうです、と私は急き込んで答えた。
やれるだけやってみたいのです。
相手は少し考えた後、口を開いた。
面白いね。
きみは本気のようだし、僕はチャレンジャーで、きみに賭けてみようと思う。
どのくらいのピッチで訪問して、一回どれくらいの利用があれば採算がとれるのか、あとでワンペーパーにして提出してくれない?
そのとおりに手配するので。
私は話が早く進み過ぎたのに驚いて、なかなか状況を把握できなかったのだが、それが呑み込めると、大泣きしてしまった。
おいおい、きみ、泣いている場合じゃないよ、それよりか、商売道具を持ってきているのであれば、僕の頭を刈ってくれないかな。ガソリン代くらいにはなるだろうから。
あとから知ったのだが、そのひとは法人の理事長だった。
彼は自身が運営する他のホームへも私が出入りできるよう手配してくださり、それにより私は事業の基礎を作ることができた。
午前中にその施設、ケアハウス虔十を訪問し、利用者様を5名ほどカットする。
すると決まって理事長が現われ、私の分の昼食もあるので宿直室で食べて行きなさい、と声を掛けてくださる。
そして最後に自分の頭を差し出す。
私の「水揚げ」(稼ぎ高)を気にかけてのことだった。
髪を切りながら、施設だからと言ってタオルやエプロンの質やデザインをおざなりにしてはいけないよ、人生の大先輩の利用者様がたには手抜きはすぐに伝わるからね、などと親身で的確なアドバイスをいただいた。
あっという間に二年が過ぎた。
いつものように理事長の髪を切っていると、彼は口ごもりながら切り出した。
来月で僕は引退することにした。
僕がいなくとも引き続ききみの出入りは保証されるよう取り計らうので安心なさい。
きみとはこれまでとても楽しく仕事をしたな、ありがとう。
私はびっくりして、残念です、などと月並みな言葉を繰り返すことしかできず、自分が馬鹿に思えた。
翌月、私は花束を持ってホームを訪ねたが、理事長は予定を早めて退任していた。
事務長さんから大きな箱を手渡された。
最新型のホームベーカリーだった。
少し前、理事長の髪を切りながら、私はパンを焼くのが好きで、お客さんへお礼代わりに自家製のパンを手渡せたらいいな、と思っているのだけれど、肝心のホームベーカリーが旧式で容量が小さく、さらに故障しがちだと話したことがあった。
彼はそれはいいねと笑って頷き、でもお客さんよりも、まずはひょろひょろ痩せたきみがしっかり食べた方がいいんじゃない?と軽口を叩いた。
憶えていてくださったんだ。
ひとの縁とは不思議なものだ。
前触れなしに出会い、急に別れが訪れる。
その後私は胸に空いた穴を埋めるのにとても長い時間を要した。