言葉が気になる。誰が何を言ったかもあるが、そもそも『言葉』って何だったかなあ。広辞苑では「①ある意味を表すために口で言ったり字に書いたりするもの。語、言語。②物の言い方。③言語による表現。※以下略」、こんなことを知りたいんじゃないんだよなあ。新明解では「その社会を構成する人々が思想・意志・感情などを伝え合ったり、諸事物・諸事象を識別したりするための記号として伝統的に用いる音声。またその音声による表現行為。※以下略」、効能の説明だがこれも知りたいことと違うなあ。
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こんなふうに思う。自分が自分以外を知る道具が言葉、何かを感じても言葉を知らなければその意味はつかめない。そう考えていくと、世界を信じ人間を信じそして自分を信じられるかどうかは言葉の問題。自分と世界は言葉でつながっている。これはシンプルで素敵な真実。だって人はみんな自分用の言葉をどこかから借りてきて使いながら、自分流の世界をつくって暮らしているんだもの。他から影響はあっても、責任は当然あっても、こんなに自由なことは無いよね。
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それがだんだん怪しくなってきたのは、嘘と誤魔化しの政治の言葉が上からどんどん降ってきたのが大きい。高齢者になって疫病蔓延を体験したり、こんな嘘っぱち政治にお世話になるなんて考えもしなかったが、命の不安な世界で自分を支えてくれる価値ある言葉を見つけられない絶望、とでも言えるかな。こんなことを言葉にしてみると、問題は何も解決していないのちょっとだけスッキリしてくる。大げさだが、前より世界の何かを少し分かった気分するからかなあ。
先月の新聞に、「この間の政治は『言葉』と『論理』を軽視・・・明白な憲法違反を司法が放置してきたことも一因」(安倍内閣 国会招集要求98日間先送りに対し元最高裁判事が「違憲」意見書 9/21朝日)の記事があり、はっとさせられた。こういうまとまな言葉をマスコミが無視状態なのが怖い。言葉の劣化はマスコミがそれを放置容認してきたことが一因、と書いておこう。
政治のことを書くつもりなんか無かったのに難しいことを書いてしまった(涙)。一晩おいて修正、何を言いたかったかを理解😄続編書きたい、難しくない奴
画像は88.5度で淹れるママヨさん。88.1度だとこれまた全然違ってくる珈琲世界。