落ち込んだとき
人にどう接してもらいたいだろう。仕事や家族のことで悩むのは日常茶飯、時には命に関わる病気に罹ったり、周りから信用を失ってしまうことだってある。そんな失意の時。
職場の人間関係で自信がなくなりそうだった時にママヨさんから、「自分からは人を否定しない人に見えていますよ。誰にでも合わない人はいるから気にすることはない」と言ってもらえて安心できたと先日の読書会交流会でMSさん。「落ち込んだ時、ただ話を聞いてくれる人が側にいてくれるだけで嬉しい」とママヨさん。これは波風氏も同じ。老いるほど何か役に立ちそうなことを言いたくなったり、逆にどこかで読んだような偉そうなことは聞きたくなくなるものだ。
困っている知人
がいたら励ましたい、と思う波風氏。励ますと言っても、イラストを絵はがきにして「そばにいるよ。」を感じてもらうぐらいのこと。自分で決めているルールがある、「俺のやっていることは自己満足で無いか」を自問自答した上で決行する、「何かしてあげる」なんてことは考えない、相手からの返信は一切期待しない(送り返されないよう願うが)。それは、波風氏自身が失意にあった時、更にどん底に落とされる『励まし』を残酷な形で受けた体験から来ている。悪意につながるのなら、何もしない何も言わない方が良い。結局、困っている人を励ますとは、素の人間性がなせる技であり精神、その場限りの良い顔は迷惑至極。
困っている人に
寄り添う人を知っている。不登校の受け持ち生徒に週1回2年間自宅(往復だけで1時間弱)を訪ねてドア越しに声をかけていた先生。ある事情で家から出られなくなった友人に電話(友人は無言)をかけ続けている教え子。もっと知っているが誰も皆知られていない。さりげないのだ。売名や自己顕示の対極にあるそういう人は長く会わなくてもいつも温かく懐かしい記憶。こういうことを時々頭の隅から取り出して、「俺の知り合いに年齢に関係なくすごい人がいる」なんて思いを巡らせるのはとても幸せなことだ。
画像は『言葉を植えた人』(若松英輔著:亜紀書房)、言葉(意味の固まり)と言語(意味を表す形)、心(個々の人を規定)と魂(人間そのものの根底)の関係を知る良書。著者はTV『100分de名著』の読書解説で知ったブログ更新せず「言葉と芸術」などを考えていた。今日のブログ記事のことも 病気の人を励ます時のためらいは、自分が比較的に健康なこと。同病相憐れむは至言、「波風食堂再開するのでウドン食べにおいで下さい」の案内ハガキで出そうかな。