学力低下や教育論が盛んである。自分自身の中高生時代を振り返ると、現在と連続している部分とともに、今では記憶の彼方にある不連続な部分があることに気づく。若い時分は、あまりそういうことに気づかなかったが、自分の子どもを育てて見ると、本人の意識はともかく、中高生が相当に幼い面も残していることを前提にしないといけない。知識や技能のある面では、大人顔負けの中高生がいることも事実だが、全体的な成長の過程はアンバランスな場合が多いからだ。
大学や大学院を出て上級公務員として経験を積んだ30代の文部科学省の諸氏は、統計的な裏付けを用いながらも、生徒だった自分の経験をもとに教育政策を立案せざるをえないだろう。それを助言する形の教員出身の教科調査官は、かつて優秀な中堅教員だったであろうから、自分の経験と指導力を前提にものごとを考えがちになる。どうしても、中高生を実際以上に大人として見た、理想論が政策となりがちである。
中学生に、現代文と共に日本の伝統的な古文や漢文の教材を与えて、我が国の伝統的な文化の価値を気づかせたいとする意図は、それだけから見れば善意から発するものだろう。しかし、古文や漢文を教材として扱うからには、先生は最低限の文法的な知識も教えなければ、本当に理解することは難しいと考えるだろう。教材の量は少なくても、限られた時間の中で古典領域の重みはずしりときいてくるはずだ。
その影響はどこに表れるか。おそらく、手間と時間がかかる作文の指導の時間の減少となっているのではないか。自分の家族や友人、身の回りのできごとや地域社会での体験などを文章に綴り、考える体験が少なくなっているのではないかと思う。地球環境問題や社会の在り方にたいして一人前の意見を述べるのに、自分の身の回りのことにはひどく無頓着なのは、私の子どもだけの特徴ではないのではないか。
「これは教えるべきだが、あまり深入りしてはいけない」などと制限を加えるようなら、それは必修科目とすべきではないだろう。総合的な学習の時間や学校行事で、百人一首かるた大会で盛りあがるのも一つの方法だし、中高生の必修の国語には、古典領域の教材は外してもよいと思う。古典は選択科目として、興味感心を持つ者が体系的に学習できるようにしたほうがよい。せめて、漢文領域を外したらどうだろうか。かわりに、地域社会や身の回りに取材した作文を通じ、事実に即して考える力を養う授業を重視できるようにしてほしいと思う。そうして、同じことが国語ばかりではなく、社会など他の科目にも言えるのではないか。理科の軽視も、そろそろ終わりにしていい頃だろう。
これが、中高生の子育てをほぼ終えつつある理系出身の父親の実感である。