電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

この風景

2006年04月23日 20時58分15秒 | 散歩外出ドライブ
山形県村山盆地中部の白水川堤防に、かなりの長さにわたって桜並木がある。桜が満開となった時期には、赤提灯もライトアップもない、自然のままのこの風景は見事なもので、お気に入りの散歩ポイントだ。残念ながら、今年はまだ桜前線がここまで北上していないようで、つぼみはだいぶふくらんではいるものの、まったく開花していなかった。
遠くに見える山は、東北地方には珍しい高度差三百メートルほどの断崖を持つ黒伏山であろう。同級生にクライマーがいるが、しばしばこの山に出向き、登攀を楽しんでいるとのことだ。
奥羽山脈の脊梁の一つである船形山周辺から発する白水川は、今雪解け水が豊かに流れている。かつては黒伏山神社に参詣する人々のとぐ米で川の水が白く濁ったと言う伝承があるとのことだが、この桜並木はどんな人が何の目的で植えたものか。晴天の休日に車を止めて、妻と共に堤防の上に立つと、ふとそんなことが思われる。
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宮城谷昌光『孟嘗君』第5巻を読む

2006年04月23日 15時07分14秒 | -宮城谷昌光
宮城谷昌光著『孟嘗君』第5巻をようやく読了しました。2004年の秋に初めて読んで以来、昨年同時期に再読、今回で三読。あらすじだけでなく、内容のほうもだいぶ楽しめるようになりました。



「海大魚」の章では、洛芭を忘れられない田文が、父田嬰の命令により西周姫を娶ることになる。気乗り薄で迎えた花嫁が、実は・・・というお話。希望は星の光のように小さく遠いものだが、月と違って満ち欠けはしない、という白圭の諭しは、無名の時期の長かった作者の感慨だろうか。
「諸国漫遊」の章では、田嬰が薛(せつ)の国主となり、「靖郭君」と呼ばれるようになるが、田文は嗣子としては扱われない。隣接する嘗の邑を与えられ、これを見事に治めて孟嘗君と呼ばれる。だが、孟嘗君の人気が高くなれば、反発も生じる。若干の臣下と食客を連れて、馬車で諸国を巡る旅に出る。
「魏相の席」の章では、楚と結ぶ鄒忌(すうき)が、宰相への復帰を狙い、毒の樹で作った琴で威王を殺す。宣王が即位し、田嬰が薛で喪に服す間に、鄒忌が再び宰相に任ぜられる。鄒忌は宋王に薛を進呈すると伝え、宋軍が薛邑を取り囲むが、貌弁により鄒忌の悪事と真実を伝えられた宣王は田嬰の薛邑を救援する。策謀が失敗した鄒忌は、宋により暗殺される。孟嘗君は魏の首都大梁に入り、宰相の犀首から後継者にと懇望される。
「間雲」の章は、落ち目の魏を孟嘗君が立て直す次第。王族出身者は王室への忠誠心が薄く、自己保全に心をくだくが国益には寄与しない、という指摘は厳しく鋭い。張丑の指摘どおり、秦が韓を攻める。張儀を秦の宰相にと推す孟嘗君の深謀に対し、秦の樗里子は魏を攻めるが、魏の宰相の孟嘗君は国力の充実を優先し「そちらがどうであろうと、こちらは誓いを守る所存」と相手にしない。魏の襄王は孟嘗君を頼りにする。
「斉の宰相」の章では、秦と楚の争いに対し、秦の同盟国として国力を回復した魏も参戦し、楚を破る。楚は斉をたきつけ、魏を攻めさせるが、これも一蹴する。しかし孟子をかくまったために再び宋王に攻められた薛を救援すべく、わずかに300人の配下と共に薛に戻る。この救援の一部始終と田忌将軍の帰国の場面はたいそうドラマティックだ。田嬰の死とともに田文が嗣子となり、薛邑の国主とともに斉の宰相となる。
「函谷関」の章では、時が移り斉も愚昧な王の代となる。秦の宰相にと請われた孟嘗君は、趙の武霊王の策略により危うく囚われの身となりかかるが、かろうじて脱出する。斉と魏と韓の三国は孟嘗君を師将として秦を攻め、これを破る。だが、斉王は薛公・孟嘗君の盛名を疎んじるようになる。「人を助ければ自分も助かる」という白圭の死は、黄河の治水土木事業とともに残ることだろう。



この巻は、主たる悪役であった鄒忌があっさりと死んでしまうので、以後は各国の王の交代と争いを描くことに主眼が置かれ、物語のドラマ性は低下する。国の盛衰に予備知識があればもう少し楽しめるのかもしれないが、なんだか駆け足で歴史の説明をされているような気がしてしまう。なかなか難しいものだ。

本編に出てきた中山国の滅亡と将軍・楽毅について、著者は『楽毅』という物語を別に書いている。こちらは一連の軍事の物語だが、孟嘗君の国の最後が描かれ、ちょっと悲しい。
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