電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

J.S.バッハ「マタイ受難曲」を聴く

2013年08月16日 06時00分26秒 | -オペラ・声楽
7月は、なぜかメンデルスゾーン月間でした。大曲の交響曲第2番「讃歌」をはじめ、弦楽四重奏曲の第1番と第2番の実演に接するなど、メンデルスゾーンの音楽にひたることができました。これに関連して、ずっと通勤の音楽として聴いていたのが、若いメンデルスゾーンが蘇演したという、J.S.バッハの「マタイ受難曲」です。

この曲の録音は、手元には3種類あります。1つ目は、ミシェル・コルボ指揮のローザンヌ室内管弦楽団・同声楽アンサンブルによるLP三枚組(エラート)。ただし、LPでは通勤の音楽にはできませんし、全曲を聴き通すのも辛いものがありますので、今回はハイライト版を選択しました。それが、ペーター・シュライヤー指揮ドレスデン・シュターツカペレによる演奏で、Philips:PHCP-10600という型番のCDです。
三つめは、カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団による全曲版で、1958年、初のステレオ全曲録音です。これはすでにパブリックドメインになっており、いつでもダウンロードして聴くことができます。リヒターの演奏は厳しく、聴いて楽しむような性格のものではない、というような先入観がありました。これは、もちろん昔のレコード評論が与えたものであって、実際に聴いてみれば、決してそんなことはありませんでした。

今回、「マタイ受難曲」のハイライトを聴いてとくに感じたのは、バッハが書いたオーケストラ部の音楽の見事さです。合唱と独唱そしてテキストに注目がいきがちですが、若いメンデルスゾーンが傾倒したものは何だったのだろうという意識で聴くと、また別の聴き方ができるようです。

例えば第39曲のアルトのアリア「主よ、憐れみたまえ」。声楽と歌詞に頼るだけでなく、ヴァイオリンが切実な祈りを捧げます。この感情の真率さは、むしろ言葉のないヴァイオリンだからこそ、訴えるものがあるのかも。

Erbarme dich, mein Gott.
Um meiner Zaehren willen;
Schaue hier, Herz und Auge
Wein vor dir bitterlich.
Erbaume dich!

 憐れみたまえ、わが神よ。
 私のこの涙を。
 ごらんください。私の心と眼は、
 あなたのみ前でさめざめと泣いています。
 憐れみたまえ。
  (CD添付のリーフレットより。訳:服部幸三)

イエスが審問を受けているとき、中庭にいたペテロは、一人の女使用人に、「ナザレのイエスと一緒にいた」と言われ、三度これを否定します。最後の晩餐でのイエスの予言を思い出し、悔やむペテロの涙と後悔を、独奏ヴァイオリンが悲痛に歌う場面です。全能の神とは異なり、限りある人間だからこそ、後からわかったことにはげしく動揺し、後悔します。この感情は、ある程度の年齢を経た多くの人が体験していることでしょう。

バロック時代でもロマン派の時代でも、私たち人間の嘆きや悲しみが絶えることはありません。「主よ、憐れみたまえ」の音楽は、バロックの装いをこえて、ぱっくりと口をあけた、悲嘆と後悔と普遍的な祈りを表現したもののようです。

「マタイ受難曲」を通勤の音楽にしてみて、終曲の合唱のような、声楽の圧倒的な力を感じずにはいられません。そしてまた、自宅でも何度も繰り返して聴き、リヒターなど他の演奏なども耳にして、昔のレコード評論の事大主義的な決め付けからは自由になれたように思います。J.S.バッハの音楽の持つ活力やエネルギー、祈りの感情の真率さ、声楽やオーケストラの使い方の見事さなど、やっぱり圧倒的です。

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