法事関連の忙しさにかまけて、音楽をほとんど聴いておりませんでした。一段落してようやくほっとした休日に、ようやく音楽を聴く時間ができましたので、先ごろ購入したCDで、飯森範親指揮山形交響楽団によるブルックナーの交響曲シリーズからハース版による「第7番」を聴きました。これは、2013年1月に開かれた第226回定期演奏会で取り上げられた曲目を、同じ山形テルサ・ホールでセッション録音したもので、YSO-Live としてオクタヴィア・レコードの OVCX-00077 という型番で発売されているものです。
若い頃は、ブルックナーの交響曲というとLP二枚組が普通でしたので、懐具合の関係から廉価盤中心の当方の射程に入ってくることはあまりありませんでした。たまにFM放送などで海外のオーケストラの演奏会などが放送されると、「ほう、そうか、これがブルックナーの音楽か」などと言っておりました(^o^;)>poripori
まことに呑気な年代でありました。
1980年代になると、LPが二枚組で5,000円なのに、CDだと一枚で3,800円で、ひっくり返す手間もいらないというアホな理由で、ブロムシュテット指揮ドレスデン・シュターツカペレによる第7番のCDを購入、演奏も録音も素晴らしかったことから、ブルックナーの音楽に親しむようになりました(*1)。
ジョージ・セル指揮クリーヴランド管による第8番の二枚組CDとともに、第7番のCDが、いわばブルックナー開眼のきっかけですので、いわゆる「ブル7」にはつい手が伸びます。
ところで、大編成・大音量の迫力が本当にブルックナーの真髄なのか?逆に、弦楽器の透明で静かな響きや、よくバランスの整えられた管楽器のサウンドなども、ブルックナーのもう一つの魅力なのでは?ブロムシュテットやセルやマタチッチなどの表現の魅力に賛辞を惜しまないものの、山響の定期演奏会で何回かブルックナーを聴くうちに、こうした別の方向性もあり得ると考えるようになりました。初期の比較的小さめの編成の曲だけでなく、後期の曲ではどうなのだろう?期待して臨んだ定期演奏会(*2)は、充分にその期待に応えてくれるものでした。セッション録音ではありますが、このときの演奏を収録したCDを入手して、通勤の音楽としてしばらく繰り返して聴きましたが、二管編成のオーケストラにワーグナーチューバ等を補強しただけの編成であっても、800席ほどの容量の、比較的音響に恵まれたホールでの録音・演奏は、爽やかなもので、充分に説得力があります。
大編成・大音量で情念の塊をぶつけてくるような演奏表現を求める人には向きませんが、そういうものではない現代のブルックナーを期待する人には、魅力のあるものです。
第1楽章:アレグロ・モデラート。曲はヴァイオリンのトレモロで静かに始まります。この楽章は、山響ファンとしてはうれしくなるほど立派な演奏です。
第2楽章:アダージョ。非常に荘厳に、かつ非常にゆるやかに。ワーグナーの死期を悟り、これを悼んで、悲しみをこの楽章に表したものだそうです。たしかに、厳粛な気分になります。
第3楽章:スケルツォ、Sehr schnell. ブルックナーが得意とする力強い反復の効果がきいています。リズムが冴えています。
第4楽章:フィナーレ。快速に、しかしあまり速すぎないように。こういう矛盾した表記がブルックナーらしいといえばらしい。過度を戒めたと考えれば、響きでも同じ考え方はありえます。
(*1):ブルックナー「交響曲第7番」を聴く~「電網郊外散歩道」2006年6月
(*2):山響第226回定期演奏会でシューマン、ブルックナーを聴く~「電網郊外散歩道」2013年1月
若い頃は、ブルックナーの交響曲というとLP二枚組が普通でしたので、懐具合の関係から廉価盤中心の当方の射程に入ってくることはあまりありませんでした。たまにFM放送などで海外のオーケストラの演奏会などが放送されると、「ほう、そうか、これがブルックナーの音楽か」などと言っておりました(^o^;)>poripori
まことに呑気な年代でありました。
1980年代になると、LPが二枚組で5,000円なのに、CDだと一枚で3,800円で、ひっくり返す手間もいらないというアホな理由で、ブロムシュテット指揮ドレスデン・シュターツカペレによる第7番のCDを購入、演奏も録音も素晴らしかったことから、ブルックナーの音楽に親しむようになりました(*1)。
ジョージ・セル指揮クリーヴランド管による第8番の二枚組CDとともに、第7番のCDが、いわばブルックナー開眼のきっかけですので、いわゆる「ブル7」にはつい手が伸びます。
ところで、大編成・大音量の迫力が本当にブルックナーの真髄なのか?逆に、弦楽器の透明で静かな響きや、よくバランスの整えられた管楽器のサウンドなども、ブルックナーのもう一つの魅力なのでは?ブロムシュテットやセルやマタチッチなどの表現の魅力に賛辞を惜しまないものの、山響の定期演奏会で何回かブルックナーを聴くうちに、こうした別の方向性もあり得ると考えるようになりました。初期の比較的小さめの編成の曲だけでなく、後期の曲ではどうなのだろう?期待して臨んだ定期演奏会(*2)は、充分にその期待に応えてくれるものでした。セッション録音ではありますが、このときの演奏を収録したCDを入手して、通勤の音楽としてしばらく繰り返して聴きましたが、二管編成のオーケストラにワーグナーチューバ等を補強しただけの編成であっても、800席ほどの容量の、比較的音響に恵まれたホールでの録音・演奏は、爽やかなもので、充分に説得力があります。
大編成・大音量で情念の塊をぶつけてくるような演奏表現を求める人には向きませんが、そういうものではない現代のブルックナーを期待する人には、魅力のあるものです。
第1楽章:アレグロ・モデラート。曲はヴァイオリンのトレモロで静かに始まります。この楽章は、山響ファンとしてはうれしくなるほど立派な演奏です。
第2楽章:アダージョ。非常に荘厳に、かつ非常にゆるやかに。ワーグナーの死期を悟り、これを悼んで、悲しみをこの楽章に表したものだそうです。たしかに、厳粛な気分になります。
第3楽章:スケルツォ、Sehr schnell. ブルックナーが得意とする力強い反復の効果がきいています。リズムが冴えています。
第4楽章:フィナーレ。快速に、しかしあまり速すぎないように。こういう矛盾した表記がブルックナーらしいといえばらしい。過度を戒めたと考えれば、響きでも同じ考え方はありえます。
(*1):ブルックナー「交響曲第7番」を聴く~「電網郊外散歩道」2006年6月
(*2):山響第226回定期演奏会でシューマン、ブルックナーを聴く~「電網郊外散歩道」2013年1月