電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

長州藩の密航留学生は何を学んだか

2014年08月17日 06時05分32秒 | 歴史技術科学
犬塚孝明著『密航留学生たちの明治維新』(*1)によれば、「長州藩の五人の留学生を一緒に住まわせるには、プロヴォスト街の博士の家はあまりにも手狭であった」ために、「マセソンは井上と山尾の二人を、カレッジのすぐ前のガワー街103番地のクーパー邸に寄宿させることにし」ます(p.86~87)。主人のアレクサンダー・D・クーパーは、風俗画を得意とする画家で、その妻もアカデミー出品作家の一人だったとのことですが、この時代はちょうど美術界にオリエンタリズムが流行していた頃でもあり、東洋のサムライ青年を受け入れることは、画業の上でもメリットを感じたのかもしれません。

プロヴォスト街のウィリアムソン博士邸の三名(伊藤、野村、遠藤)とガワー街のクーパー邸の二人(山尾、井上)は、英会話の学習を経て、ユニヴァーシティ・カレッジに科目聴講生(Students not Matriculated)として入学(*2)します。これは、学びたい科目を選んで授業料を払い、講義に出席するもので、Ph.D.を授与される正規の学生ではありません。『密航留学生たちの明治維新』によれば、1864年7月22日付の学生登録簿(Register of Students)には、山尾、伊藤、野村、遠藤の4名が2ヶ月~7ヶ月分の分析化学(Analytical Chemistry)の授業料を納入し、聴講者となったことが記録されているとのことです。担当は、もちろんウィリアムソン博士でした。

この科目の特色は、化学を初めて学ぶ者をも対象とした実験室教育であることで、理論の学習とともに、新設のバークベック実験室で、数名の助手の協力のもと、自ら試すことができるというところにありました。まさに、ギーセン大学におけるリービッヒ流の教育方法です。バークベック実験室というのは、まさにこの年、1864年に、ジョージ・バークベック博士を記念して開設された、当時の最新設備を誇る実験室で、クリスマスやイースターをのぞき、毎日午前9時から午後4時まで開放され、多くの学生が勉学に利用していた施設とのことです。

密航留学生たちは、おそらく朝晩はウィリアムソン夫妻やクーパー夫妻とともに英語等を学び、日中はカレッジに行って実験室で化学の実験と学習に明け暮れるという生活を送ったのでしょう。英語は多少不自由でも、実地に試しながら学ぶことができる画期的なシステムのおかげで、化学の初歩から少しずつ積み上げて行き、学習期間から判断して、おそらく未知試料の分析なども経験したことと思われます。

分析化学実験、例えば金属陽イオンの定性分析というものは、かつて私の学生時代には「19世紀以来の古色蒼然たる実験技術」と陰口をきいたものでしたが、幕末の密航留学生が初めて体験する場面を想像すると、まるで違った色合いで見えてきます。たぶん、黒板とチョークと書物によって、高尚な理論を説くやり方では、定性分析や定量分析など分析化学の内容の理解は困難だったでしょう。実験室で実地に色の変化や沈殿の分離操作などを通じて成分元素を推定したり、量的な考察を行うような経験は、幕末の青年武士たちには格別に鮮明に印象づけられたことと思います。例えば未知試料を一定の手順で処理していくことによって、その成分を分離し同定することができる。それは、階級、宗教、人種や国籍によらず、きちんと学んだ者であれば誰でもが可能となる、西洋文明の技術的基盤の一つであり、ウィリアムソン博士は自分の信念に基づき(*3)、東洋のサムライ留学生達に、それを伝えたのではないか。

授業の合間や休日に、密航留学生たちは、当初の目的である海軍学を越えて、イングランド銀行や造幣局、博物館、美術館など各所へ通い、西欧文明の精華を吸収しようと努めていたようです。実際には、見学すべき場所について、ウィリアムソン博士やマセソンらの助言があったことでしょうが、英国の中央銀行であるイングランド銀行で紙幣の印刷を見学して感嘆するというのは、当時の武士の見識から見て、かなりの飛躍を感じます。おそらく、彼らは彼らなりに、英国の文明社会を分析し、根底をなす構成要素に到達しようと考え続けていたからではなかろうか。それが、例えば中央銀行と全国共通紙幣の発行であり、交通・物流の体系としての鉄道網であり、科学や技術の教育であるというように、その後の彼らの人生において主要なテーマになっていったのではなかろうか、と考える次第です。



井上聞多と伊藤俊輔は、新聞を通じて、無謀な攘夷を決行した長州藩に対する四ヶ国の制裁計画を知り、急ぎ帰国して下関戦争の講話交渉にあたるわけですが、外交的・政治的局面はさておいて、もう一度、長州藩の密航留学生の名前と帰国後の仕事を一覧してみましょう。

井上聞多、天保六(1835)年生まれ、井上馨、外務大臣
遠藤謹助、天保七(1936)年生まれ、大阪造幣局長
山尾庸三、天保八(1837)年生まれ、工部大学校、盲唖学校を設立
伊藤俊輔、天保十二(1841)年生まれ、伊藤博文、内閣総理大臣
野村弥吉、天保十四(1843)年生まれ、井上勝、鉄道局長官

一足早く帰国した二人は、識見を買われて政治家としての役割を果たすこととなりましたが、他の三人は、テクノクラートの道を歩むことになります。そしてその道は、たんに自分が鉄道が好きだから鉄道をやる、と決めたのではなさそうです。技術的視点からという制約はありましたが、西欧文明社会を分析し、その根底にある要素を抽出し、日本に移すことによって、極東に西欧文明に基づく社会を再構成することを考えた、というふうに読み取れます。

いずれにしろ、五人の密航留学生たちは、リービッヒ流の教育システムを通じ、ウィリアムソン教授や学友たちから、西欧文明を構成する要素を探る考え方を学んでいったのではないか。ウィリアムソン教授を通じて受け継がれたのは、リービッヒ流の実験実証主義や教育システムであるとともに、オーギュスト・コント等の自由主義的な産業社会の見方・考え方であったろうと思われます。

写真は、ロンドンのイングランド銀行です。

(*1):犬塚孝明著『密航留学生たちの明治維新』等を読む~「電網郊外散歩道」2014年1月
(*2):当時、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンには、法文学部(Faculty of Arts & Laws)と医学部とがあったようですが、密航留学生たちは法文学部に聴講生として入学したようです。ただし、柏木肇「西欧の化学ー19世紀化学の思想その4、イギリスにおける化学の職業と科学運動」雑誌『科学の実験』1978年7月号p.575には、「医学部の中に化学教育を置き」とありますので、正規の学生としてであれば、医学部だったかと想像しています。
(*3):ダーウィンと同時代に生きたウィリアムソン教授は、1863年に39歳でイギリス化学会の会長に就任しますが、原子論を信奉することが会長にふさわしくないとして一度退任させられています。しかし自分の信念を曲げず、後年ふたたび会長職に就任しているように、学問的業績と識見の豊かさだけでない、強い信念の人でもありました。


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