志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

「A サインデイズ」「モトシンカカランヌー」「極私的エロス恋歌1974」「ゆきゆきて神軍」など10月の桜坂劇場、テーマの一つが沖縄よ、沖縄であれ!

2020-09-24 02:44:38 | 映画
1672年は公に琉球王府が遊郭を設置した年とされている。10年ほど、遊郭やジュリと呼ばれた女性たちの芸能を検証してきたので、戦後の水脈(流れ)は気になっている。日本の遊郭との比較も試みたが、沖縄の独自の形が見えてきたのは確かだったが~。
今あらためて復帰が捉え返されようとしているのだろうか。「1972年に沖縄は法律上、日本になったとの書き出しのアウトラインである。沖縄は精神的にも日本になろうとしている。とても急速に。心も体も完全にニッポンになってしまう前に。濃い『沖縄」の姿を、映画を通して体感してほしいと思った。」とこの桜坂劇場の冊子は趣旨を書いている。
 濃い沖縄とは?薄い沖縄もあるのだろうか。宮古島出身の詩人は宮古に大和の言語や文化の古い形態が根付いていると、話していた。縄文の色合いである。ゆえに必ずしも琉球なり沖縄に100%心身を傾倒させるわけでもなさそうだった。かと言って常に中央を意識したゆえか、あえて14、5年東京の水を飲んだのである。出自の島をとことん背負いつつ、東京の水を飲みながら根を掘って、表象の中になにかを結晶体として残したいと念じたのだ。
土地なり風土、無意識に刷り込まれてくる何かを抱えて、ローカリズム、ナショナリズム、リージョナリズムなどなど多様なイズムを内に取り込み、無意識に造成させつつ、地球市民でもありえるような、虚構性をまた内に抱いてもいるような、不思議な存在、類としての人類を生きている。
 なぜか、これらの映画に意識が向くのは、原一男監督の名前に喚起させられたゆえだろうか。実は以前から気になっていた「ゆきゆきて神軍」をまだ観ていない。ぜひ観なければという脅迫観念のようなものがあるような、ないような妙な感覚。そしてたしか以前観た「モトシンカカランヌー」が気になっている。沖縄の遊郭は1944年の10・10空襲によって破壊された。戦後は辻遊里にとって変わって掘っ立て小屋が立ち並んだ。そしてそれはやがて朝鮮戦争、ベトナム戦争へとアメリカによる戦争の拡大により基地の町にAサインバーが立ち並んでいく。
 エロスとタナトスが戦争に重なっていく。否、存在そのものがその振り子に彩られている。戦争は極度に残虐な怪物となって暴れて命を踏みにじっていく。人間の尊厳とは何だろう?人間の人類の歴史の現在、破滅・カタストロフィーへと向かう時計の針がかなりきわどいと言われて久しい。
潜在的な破滅への不安を頭の片隅に押し込めながら、笑ったり泣いたり、喚いたりもする。かと言って今の状態が均衡をたもちながら続いていくのさと、諦観(あるがままになすがままに)をポケットのように持っていることも嘘ではない~。コロナ・パンデミックのグローバル現象の波に揺られてもいる。希望と絶望、楽観と悲観、相反する心の嵐もニヒリズムも適度に馴染みながら、生きている。しかしここに紹介された映画は狂気やカオスを超えて何だろう。執心がもたらす生きる力があるような、ないような、「スクブン」が個々の天命のようにあるとして、生きる熱量、運、不運もまた絡まっているようなそうでないような、ひっくるめて生き抜こうとする強い生命力、それに尽きるかもしれない~。紹介されている影像をすべて観たい。観れるだろうか?

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