(沖縄タイムスが大きく取り上げた「ロミオとジュリウットゥ」)
2月24日の沖縄タイムスの芸能欄は玉城淳氏が「報復絶倒の快作」と大見出しで嘉数道彦のシェイクスピアのパロディーについて多く紙面を割いて紹介している。喜劇の歌舞劇「ロミオとジュリウットゥ」についてである。タイムスの大きなサポートがそのまま紙面の勢いであり、玉城さんの細かいディテールはその通りでかなり詳しく関係者からのインタビューもなされたのだろう。それが紙面のことばから響いてくる。すばらしい!演出をはじめ、演じた個々の芸の確かさに鍛えられたパロディーは実際に抱腹絶倒で初めから終わりまで笑いが止まらなかった。
作品のディテールはチャンプルーである。すでに多くの人々にとって既知になっているラブストーリーを幾重にも沖縄の歌劇や組踊、琉球舞踊と重ねる、ディフォルメする。音楽もまた古典と民謡をからめ、面白い。さらに現代演劇の新しいセンスも盛り込む面白さである。喜劇ではなくパロディー劇=笑劇の新たな誕生だった。
対称性がたまらない、笑いをもたらす極端なキャラの登場である。モリエールの「タルチェフ」もそうだ。「守銭奴」にしても極端な性格の人間が登場する。風刺であり、「ああ生きていて良かった」と最後には思わせる仕掛けになっている。痛烈に人間の弱さを、矛盾を暴いていく。人間の弱点を、奢りを、社会のシステムの諸々をチクリと刺していく点が見られる。シェイクスピア喜劇もそうだ。台詞がまた面白い。
以前、「執心鐘入」とギリシャ劇「オイディプス王」を比較して「悲劇のリズム」の西洋と沖縄の比較論を書いた。その後で「今帰仁祝女殿内」を下敷きに喜劇論を少し書いた。「手水の縁」のパロディーとしての「今帰仁祝女殿内」である。この作品もまた抱腹絶倒させる歌劇である。しかしそれは同じパロディーでも喜劇である。しかし嘉数さんの翻案シェイクスピアは喜劇ではなく笑劇である。「だから何?面白ければいいだろう」と誰かが言いそうだが、喜劇と笑劇の違いは注目してほしい。
沖縄演劇の喜劇論について以前からまとめたいと考えている。沖縄演劇の悲喜劇論のアウトラインはできていて、取り組んだいくつかの作品があるが、論として両方を対象化したいと思ったのは1980年代にアメリカから戻って以来のことである。なぜか今回の一連の関わりはそそられる。悲劇論に関しては西洋と構造の異なる点が発見できた。喜劇なり笑劇はどうか?『首里城明渡しと世替りや世替りや』(演劇に見る琉球処分)の論稿の中にその二つの演劇概念についてはすでに書いているが、大城立裕氏の「世替りや世替りは」は優れた喜劇である。新聞社の芸能担当記者もその概念の違いはしっかり押さえてほしいと思う。
よくこのブログで登場する真喜志康忠氏は沖縄芝居の底上げを真剣に考えてきた方だった。氏のシェイクスピアからの翻案劇は「按司と美女」(オセロー)と「落城」(マクベス)がある。劇団『乙姫』には「乱菊」(ハムレット)と「真夏の夜の夢」(同名)がある。大城立裕氏の「今帰仁落城」はマクベスの色合いが少し加味されている。他笑劇として玉城満さんの作品などがある。照屋京子さんの作品にもシェイクスピアの翻案劇がいくつかある。
真喜志康忠氏は仲田幸子の芸を自らが取り組む「沖縄芝居」と異なる舞台だと話していた。チョーギンであり、つまり現代流のカリカチュア的なものだと見なしていたのである。その視点に間違いはなかった。だから喜劇の女王の冠は「笑劇の女王」が正解だと言えよう。しかしすでに作られたイメージが先行する。メディアや御自分で作られたダベルが歩いて、あるいは走っていく。それも含めて沖縄文化の軽さといえば軽さで、また潮流だとも言える。
この「ロミオとジュリウットゥ」は脚本の中身を修正しないと沖縄文化を歪めて世界に発信することになる、若按司が渡地遊郭に行ったということになる。またジュリとの結婚という事だが、大城立裕氏の『嵐花』で朝敏とジュリの結婚へのクレームがついていた。ジュリが琉球王府時代にはチミジュリとして囲こわれる女性であった風習への誤解もそこにはあるように思えた。カリカチュアのパロディーの面白さがある。しかし、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の美しい台詞と愛の世界がこのようにパロディー化され茶化される所に痛みも感じる。面白ければいいのでもないと思う。歌・三線、極端なキャラ、対称性、比喩など面白いが、「抱腹絶倒」、それでいいさーでいいのだろうか、もっと考えてみたい。
沖縄の感性や知性も、集団的営為もまた晒されなければならない。今時はグローバル=ローカル文化が盛んに顕現する時代になった。対象化し照らす舞台が膨らんでいく。そこから独自性=アイデンティティーや普遍性が問われていくのだろう。
面白かった。極端な表象、音楽の面白さ、芝居構造(仕掛け)を笑って「ああ良かった」ではなく、笑劇の本流の面白さもいいが、喜劇として昇華した舞台をいつか見たいと思う。
2月24日の沖縄タイムスの芸能欄は玉城淳氏が「報復絶倒の快作」と大見出しで嘉数道彦のシェイクスピアのパロディーについて多く紙面を割いて紹介している。喜劇の歌舞劇「ロミオとジュリウットゥ」についてである。タイムスの大きなサポートがそのまま紙面の勢いであり、玉城さんの細かいディテールはその通りでかなり詳しく関係者からのインタビューもなされたのだろう。それが紙面のことばから響いてくる。すばらしい!演出をはじめ、演じた個々の芸の確かさに鍛えられたパロディーは実際に抱腹絶倒で初めから終わりまで笑いが止まらなかった。
作品のディテールはチャンプルーである。すでに多くの人々にとって既知になっているラブストーリーを幾重にも沖縄の歌劇や組踊、琉球舞踊と重ねる、ディフォルメする。音楽もまた古典と民謡をからめ、面白い。さらに現代演劇の新しいセンスも盛り込む面白さである。喜劇ではなくパロディー劇=笑劇の新たな誕生だった。
対称性がたまらない、笑いをもたらす極端なキャラの登場である。モリエールの「タルチェフ」もそうだ。「守銭奴」にしても極端な性格の人間が登場する。風刺であり、「ああ生きていて良かった」と最後には思わせる仕掛けになっている。痛烈に人間の弱さを、矛盾を暴いていく。人間の弱点を、奢りを、社会のシステムの諸々をチクリと刺していく点が見られる。シェイクスピア喜劇もそうだ。台詞がまた面白い。
以前、「執心鐘入」とギリシャ劇「オイディプス王」を比較して「悲劇のリズム」の西洋と沖縄の比較論を書いた。その後で「今帰仁祝女殿内」を下敷きに喜劇論を少し書いた。「手水の縁」のパロディーとしての「今帰仁祝女殿内」である。この作品もまた抱腹絶倒させる歌劇である。しかしそれは同じパロディーでも喜劇である。しかし嘉数さんの翻案シェイクスピアは喜劇ではなく笑劇である。「だから何?面白ければいいだろう」と誰かが言いそうだが、喜劇と笑劇の違いは注目してほしい。
沖縄演劇の喜劇論について以前からまとめたいと考えている。沖縄演劇の悲喜劇論のアウトラインはできていて、取り組んだいくつかの作品があるが、論として両方を対象化したいと思ったのは1980年代にアメリカから戻って以来のことである。なぜか今回の一連の関わりはそそられる。悲劇論に関しては西洋と構造の異なる点が発見できた。喜劇なり笑劇はどうか?『首里城明渡しと世替りや世替りや』(演劇に見る琉球処分)の論稿の中にその二つの演劇概念についてはすでに書いているが、大城立裕氏の「世替りや世替りは」は優れた喜劇である。新聞社の芸能担当記者もその概念の違いはしっかり押さえてほしいと思う。
よくこのブログで登場する真喜志康忠氏は沖縄芝居の底上げを真剣に考えてきた方だった。氏のシェイクスピアからの翻案劇は「按司と美女」(オセロー)と「落城」(マクベス)がある。劇団『乙姫』には「乱菊」(ハムレット)と「真夏の夜の夢」(同名)がある。大城立裕氏の「今帰仁落城」はマクベスの色合いが少し加味されている。他笑劇として玉城満さんの作品などがある。照屋京子さんの作品にもシェイクスピアの翻案劇がいくつかある。
真喜志康忠氏は仲田幸子の芸を自らが取り組む「沖縄芝居」と異なる舞台だと話していた。チョーギンであり、つまり現代流のカリカチュア的なものだと見なしていたのである。その視点に間違いはなかった。だから喜劇の女王の冠は「笑劇の女王」が正解だと言えよう。しかしすでに作られたイメージが先行する。メディアや御自分で作られたダベルが歩いて、あるいは走っていく。それも含めて沖縄文化の軽さといえば軽さで、また潮流だとも言える。
この「ロミオとジュリウットゥ」は脚本の中身を修正しないと沖縄文化を歪めて世界に発信することになる、若按司が渡地遊郭に行ったということになる。またジュリとの結婚という事だが、大城立裕氏の『嵐花』で朝敏とジュリの結婚へのクレームがついていた。ジュリが琉球王府時代にはチミジュリとして囲こわれる女性であった風習への誤解もそこにはあるように思えた。カリカチュアのパロディーの面白さがある。しかし、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の美しい台詞と愛の世界がこのようにパロディー化され茶化される所に痛みも感じる。面白ければいいのでもないと思う。歌・三線、極端なキャラ、対称性、比喩など面白いが、「抱腹絶倒」、それでいいさーでいいのだろうか、もっと考えてみたい。
沖縄の感性や知性も、集団的営為もまた晒されなければならない。今時はグローバル=ローカル文化が盛んに顕現する時代になった。対象化し照らす舞台が膨らんでいく。そこから独自性=アイデンティティーや普遍性が問われていくのだろう。
面白かった。極端な表象、音楽の面白さ、芝居構造(仕掛け)を笑って「ああ良かった」ではなく、笑劇の本流の面白さもいいが、喜劇として昇華した舞台をいつか見たいと思う。