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自己決定権の基盤としての琉球諸語継承→9月18日、コンベンションセンターで県民大会へ

2013-07-13 11:11:09 | 言語

「県主導という事にはまた、警戒しないといけないね」と、長いこと方言/言語研究を続けている知人の研究者のコメントである。「なるほど」で、彼に言わせると『ウチナー芝居』の『ウチナーグチ』は共通ウチナーグチではなく、理解言語としての共通性をもっているだけで、話し言葉ではない、という。つまり宮古島で上演された『沖縄芝居』を宮古の人間が楽しめたからといって、彼らの話し言葉が芝居言語にはならない。宮古語を話すのである、というのはその通りだ。しかし、ハワイ4世の方もわたしにしても沖縄芝居を見慣れている内に基幹の首里・那覇語がわかるようになり、芝居を見続ける内にウチナーグチがわかり話せるようになってきたのもその通りである。

つまり共通言語としての理解が一歩かもしれない。第一、135年の同化は日本システムのすべてを受容してきた歴史の流れの中にあり、そこで琉球諸語を取り戻す、あるいは修復する運動はかなりの決意と実践が必要に思える。第一、話す場がないのである。しかも地域によってウチナーグチも多様な話し言葉で成り立っていて、一度「文化の杜」の企画で集まった人々のウチナーグチも、まったく流暢な方と、恥ずかしそうに日本語で通す方、またミックスでわたしのように話す者、さまざまである。琉歌、歌・三線(古典・民謡)、琉球舞踊、組踊、沖縄芝居、新作組踊、それぞれの言語の中軸は首里・那覇言語だね。それをまず保存継承する文化的仕組みは大胆に推し進められないといけない、と思う。大城立裕さんの新作組踊は三八六のリズムに乗せている。現代日本語の口語でさえそれに乗せている。一つの実験的試みもしている。大方、首里・那覇語である。詩劇の可能性は叙事詩的で総合的な民族の美意識そのものでもあろうか。

言語は極めて政治的でありえる。首里中心の琉球王府時代の言語ヒエラルキーも実は醸し出される。差別された宮古・八重山・奄美の痛みも、垣間見える。糸満方言に恥じ入っている雰囲気の女性もいた。小録言葉とか北谷言葉もある。口語は地域によって実に多様な顔を見せる。それらをどう組み入れるのか?それでも正書法なり基本の規則は必要だと、佐藤 優は訴える。漢字かな混じりとローマ字併記はいい考えだと思う。伊波普猷が琉球戯曲集で試みたやり方だ。ローマ字はたしかに誰でもアクセスしやすい。かつ漢字かな混じりも慣れ親しんできた日本語が共通言語ゆえにわかりいい。両方使ったらいいと思う。


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