
1978年に岸田戯曲賞を受賞した「人類館」以降いろいろな現代演劇が創作されたが、沖縄の歴史、現実的な問題を直球で見据えたいい作品だと言える。演出と台詞に『人類館』ほどの完璧さがないとは言え、上演回数が増えるにつれてより洗練されていくに違いない。最後の演出家役の『昔から今まで変わらない』は蛇足で、必要のない台詞に思えた。昔から今まで変わらず、変わっているのである。1972年の復帰は画期的な沖縄の転換点であったゆえに44年前の復帰を捉え、それだけではなく、まさに現在形の時点から44年前を振り返り論じ合う多様な視点は、まさに現沖縄の問題である。それだけに、ひきつけたといえる。9人のキャラクターの其々の復帰から現代、琉球王府時代から近代、そして現代に到る歴史が視野におかれる。その上で戦後沖縄、復帰後の沖縄が話題になる。戦後71年目の今年、復帰後44年の今年、廃藩置県以降137年目の今年である。復帰は再び日本に包摂され日本人としてのナショナリティを得ることを意味した。
9人の復帰への想い、現況への苛立ち、希望、諦観、闘い、願望、運動などなど、「新しい言説」は独立論であろうか?香港、シンガポール、スコットランドが飛び出してくる。沖縄は変わることなく、変わったのである。復帰推進論者(祖国復帰論)も、独立論者もそれなりの視点があり、主権を持った日本への疑問(疑念)もあり、麗しき日本国憲法への理想もあった。地位協定は変わらず、米軍基地の負担も変わらない現況の沖縄、突破口はありえるのだろうか?沖縄の現代は日本の中でどんな位置づけを持つのだろうか?沖縄で日本は、アメリカはどんな位相になるのだろうか?喧々諤々、多様な視点が入り乱れる1972年から現代に到る沖縄の諸相が描かれたのはいいね。文化としての沖縄の独自性を代表するのが宇座仁一演じる沖縄の芸能者である。芝居役者の役柄が身体表象としてもどっしりとして迫ってきたのはいいね。
文化が鍵だということ、それは一番大きな要素だと思えた。地位協定や法的な条項は改変していく運動のターゲットであり続ける。ただ現代の視点を置くとき、米兵により車でひき逃げされた母親を持つ有識者の最後の場面が突き刺すものは、戦後変わることのない沖縄の地政学上の犠牲の構造であリ続ける。数値的には日本一の最貧困県であり、失業率は最悪である。米国が君臨する基地はあり続ける。日本の自衛隊もまたアメリカ戦力に従属するものとして補強されている。其の点への指摘は語られなかった。香港、シンガポール、スコットランドの言葉がきらりと光っていたね。この間なかったことばが登場した。それは沖縄の新たな展開でありえる。変わらない沖縄の諦観と絶望の隣には希望も犠牲もありえる。
劇作の手法は必ずしも新しくはなく、メタシアターの効果でリハの展開や本番、休憩時の現在の視点をオムニバスに並べている。栗山民也が演出した「かじまやーカメおばあの生涯」(下島三重子脚本) があった。また西洋演劇の中でもリハを物語りの展開で取り込む演劇作品の歴史は50年ほど前にすでになされている。古典的手法の語りの芝居だが、多様な意見の相違やそれぞれの個性で惹きつけた。沖縄を生活手段の糧にする大和人の設定もまたチャンプルーの歴史の現在であり、福永はクールに演じたし、復帰論者役の犬飼も司会役の新垣も安定した演技である。有識者役の平良暁は復帰時5歳だったそうだが、重要な役を頑張って演じていた。「十二人の怒れる男」の映画も似たような場面設定だね。
久しぶりにまさにストレートな現代演劇を見た日だった。迷えるウチナーンチュである。ウチナーンチュのコアにあるのは何だろうか?ウチナークトゥバであり、音楽、祈り、芸能だろうか?果てしなく追求する民主主義、住民主権である。今回祈りがなかったようなー。〈オバーの台詞にそれらしきニュアンスだろうか〉。戦闘機が飛ぶ轟音が場面展開で使われ、音楽効果も良かった。舞台はJAホールで、三方向から舞台を囲む実験劇場の雰囲気で身近に迫っていた。観客層には若者も多く、笑いが飛び、重い沈黙も起こった。沖縄では極めて注目度の高い復帰のテーマであり、現在に続く沖縄のきわめて今日的テーマである。久しぶりに演劇の醍醐味を味わった。鳥取の演劇祭参加、よかったね。繰り返し何度でも上演してほしい現代沖縄演劇の誕生である。ことばのポリフォニー、多言語(の可能性)が常に浮上してくるのはリアリティーそのものである。
ただ「なはーと」の小劇場の舞台構成に関しては不満があった。やはりぐるりと観客が取り囲む舞台装置で味わったエクサイティングな経験は捨てがたいゆえに~。
「9人の迷える沖縄人」は、新しいスタイルの現代劇だと言える。その点で現代日本演劇に一石を投じた作品だ。
1976年に初演で1978年に第22回岸田戯曲賞を受賞した「人類館」も永遠に日本演劇の歴史に刻まれる作品である。沖縄の近現代史を表出したブラックコメディーは、演出した経験から、かなり暴力がこれでもかと迫ってくる作品だ。そしてその構造的な暴力の中心に「天皇」が君臨している。そして作品は循環する仕組みになっている。円環構造は続くのである。日本の天皇制が続く限り、「人類館」もその負の側面を照射しつづけることになる。
つまりどちらの作品も作品として生きている。「9人の迷える沖縄人」は絶えず現時点の様々な阿鼻叫喚や苦悩、喜び、可能性、日米沖の関係性のみならず世界の状況が反映されることになる。方や「人類館」は作品そのものが絶えず円環運動をするのである。
作品のスタイルは変わるけれど、戯曲がもつ普遍性を持っている。新たな現代劇の誕生を喜びたい。これが岸田戯曲賞候補になる可能性はないだろうか。
ところで組踊の立役、沖縄芝居、史劇などの主役で力量を発揮している宇座仁一さんが『演技賞』に輝いた。最もだ。宇座さんの伝統芸に支えられた重厚さは飛び抜けていた。今後、歌舞伎や狂言役者が現代劇やドラマで活躍しているように、宇座さんに続く役者が育つことは十分ありで、すでに育っているに違いない。
「9人の迷える沖縄人(うちなーんちゅ)」は、ウチナーグチの宇座さんやハーメー、共通語の日本語、米軍基地で働く男性なども含め、英語も飛び出して、多言語のポリフォニーの場としてもさらに時代の色を染めていく可能性を秘めている。演劇進化論の実験場のような作品でもある。面白い。そしてかつ1972年の復帰そのものを絶えず問い返す構成になっている。ハーメーはそこにいるだけで存在感のある沖縄芝居役者がいないだろうか。軽く感じるのはなぜだろう。
沖縄人(うちなーんちゅ)が迷わない時代が来るのだろうか。おそらく答えは出たのである。大勢のウチナーンチュは日本国憲法の麗しさを求めて、日本への帰属を求めた。あまりにも米軍の人権無視が非情だったゆえもある。しかし反復帰論も琉球独立運動もあった。その潮流は今に続く。祖国は沖縄そのものであるとの考えもある。しかし日本復帰の米軍主導の基本的な中身は変わらなかった。米軍基地は逆に増強された。『治外法権』も変わらなかった。
いわゆる構造的差別の中の沖縄は、最貧県でもありつづける。世界の情勢はもろに生活に影響を与える。それはグローバルな国境を超えた世界の状況の中にあるのは同じゆえに、地球市民として共有する問題が降り掛かっている。さて
どう生きるか、どうより良い沖縄社会をめざしていくか。一人ひとりが問われ続けている。
劇艶おとな団のみなさま、おめでとうございます!宇座さんはじめ、出演した役者の皆さま、おめでとうございます。ただ演技に関しては、もっと磨かれることを期待したい。