
(庭の椿につぼみがいっぱいついている新春)
どこにいても人は個々の思念の中に佇んでいる。幽閉されたような病室の関係性の綾の中にいて、見えなかったものが見えてくるのだろうか。
てきぱきとパソコンを見ながら病状を把握し、普段の任務をこなしていく看護師のみなさん。おむつを替え、身体を拭いたりシャワーを浴びせたり、点滴を投与したり、多様に彼/彼女たちは仕事をこなしていく。ユニフォームを脱いだら普通のお嬢さん、おばさんたちに見えるが、「よくも、まぁー」と思える技量で、完全介護をやりとげている。家族ができることは限られているわけではない、無限なのかもしれない。
専門職の極みがどこでも生かされている。胃潰瘍で入院した時の看護師さんたちが同じ病棟でまた頑張っている姿がある。身体の細胞を壊す悪性腫瘍との闘いが続いてきた~。生きるとは自らの身体細胞の働きと共にあり、そして意識と共にある~。生命が維持される限り、意識があり続ける。身体細胞〈機能〉の死は意識の死、しかし、無意識の中で、生命維持装置で人は生き続けることも可能。一時、脳死が話題になったことがあった。内臓移植がはじまった当初だっただろうか。そして臨死体験なども脚光を浴びた。今人間の命の科学〈医療〉や倫理はどんな課題が大きいのだろうか。二人に一人が罹患すると言われる現代病のトップが癌だろうか?他脳梗塞や糖尿、人口透析がよく話題になっている。
多くの人々が壊れていく身体細胞と向き合い、闘って命の最後を迎える。事故や戦争や災害、自死で無い限り、身体の老化や病と意識が拮抗しながら生き、そして死ぬ宿命が待っている。
いかに死ぬか、終活に熱い視線が向けられている。大学でいっしょに教壇に立っていた知人がいきなり仕事を辞めて、終活ケアーセラピストとしての第二の人生を歩むために、遠く北海道に飛んでいって久しい。沖縄に戻ってきたら終末ケアーのホスピスでコーディネータ、セラピストとして働くとのことだった。クリスチャンの彼女の選択に納得した。今、緩和ケアー〈ホスピス〉の専門家が求められているのだ。
自らの人生の最後をどう迎えるか、問われ続けている。末期癌の家族は、闘っている。XXまでは生きたいという望みがあり、それが実現することを念じるばかりだが~。意思力と医療、医者や看護師が患者の意向を尊重する忍耐強い姿勢に感銘を受ける。腫瘍との闘いを挑みながら、穏やかな時に身を、意識をゆだねる、大洋の中の水が湧き出る小島で安らぐような境地であってほしい。
ことばに暗示される意識のありようがあり、時に幻聴が聞こえ、幻視が起こっている現状、現象に驚く昨今。「ほら天井が下がっているだろう」「カーテンの上に虫のような蟻のような物がたくさんいるだろう。ここから見える、ここに来て見てごらん」と言う。「天井が降りてくる~」は、あるイメージを誘い、一瞬悪寒が走ったが、ひねもすベッドの上で小さな空間に縛られている中で、見える、見えない世界があるのは事実らしい。この間の人生が走馬灯のように駆け巡っているのかもしれない。
病院の固定化された関係性の不思議を突いてくる言の葉に驚くことがある。点滴を打ったりして患者に「ありがとうございます」と言うんだよ。ありがとうは逆だろうに-。彼らは頑固に自説も押しつけてくるんだよ。生卵は絶対に衛生上許されない、とか~」
許容するドクターの声があった。食に関して何でもよしは、病院食にほとんど手をつけず、生卵を呑み、プッチンプリンを食べる頑固な者への寛容さだ。
気になっているのは、幻視を本当だといいはり、ほらここから見てごらんと声をかけてきたことだ。そしてこちらの耳が悪くなったのか、言葉が時に意味不明に感じてきたことである。聞き返さなければならず、聞き返すと感情が泡立つので機嫌が悪くなる。
時に涙声になり、泣き出すことがある。できるだけ長くそばにいてあげたいのだが、時に自らの詩を朗読する時は眼がきらきらしている。昨日は太陽や地球に捧げる詩について某詩人について語っていた。フーコーを思い出した。世界や宇宙の壮大な構造があり、その中の一部として生かされていること~。
45臆年の地球の歴史のある定点、瞬時の光のような生命。ことばを編んだ詩編は何を秘めているのだろうか。馬が振り返って見たものは虚なのか、永遠だったのか~。