(沖縄タイムス2016年6月7日)
遊廓の芸能を見ていて、同じような写真や内容を意識していたこともあり、この10回のシリーズはとても興味深かったですね。写真史を研究している仲嶺さんならではの企画でしたね!物象から紐解いていく手堅さは無言語媒体の歴史資料の絵画の読み解きとも似ていますね。
文献には記録されていないものが、絵画や写真の中で如実に実態を浮き彫りにするようなところはスリルさへ感じます。ほらこの絵画を見てごらんなさい。紅衣装のジュリ(芸妓)たちが三線をかなでているでしょう。ほらここでは踊っているでしょう。動かぬ実証になります。衣装も雰囲気も、素振りも見えてきます。踊りの形さえ背中が反った踊りの「かしかけ」などもあり、また諸屯でも、動きがなおやかというより直線的でガマクが入らず、くるりと踊る風な所作も含め、近世から近代への変容が見えてくるのはいいね。
短時間だが戦前の踊りの光景も映像から垣間見ることができるます。型が必ずしも優美ではない舞踊もありますね。どれだけ観衆の目に晒されて鍛錬されてきたかと言う点で、遊廓のお座敷では、遊女歌舞伎と似て似なかったような(?)芸が繰り広げられていたのも一つの事実だったといえるのだろう。
冠船芸能、あるいは王府芸能から近代へ、変節(変容)が激しかったのですね。遊廓でも端踊りや組踊が歓待芸能として、ゲストの前で繰り広げられたのですね。まれびとは王侯貴族に士族層、薩摩の在番や役人、水夫(船頭)などなど、そして冊封使一行、中国人の商人なども(?)
すでに科研の報告書にも博論の中でも書いたのだけれど、表の冠船芸能や王府芸能が主に若衆が中軸になったのに対し、19世紀前後からは二才も躍り出ますが、中心は若衆ですよね。それに対して遊廓ではやはり少女(雛妓)たちです。ほとんど女装ではなく男装で若衆踊りや二才踊りをしていますね。つまり琉球王府時代の芸能の主体は少年・少女ということになります。踊り子は、組踊にも登場しますが、主に遊廓の踊り子だったのでしょう。
(沖縄タイムス2016年6月28日)