志情(しなさき)の海へ

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【いまなぜ「玉音放送」なのか】←戦後70年特集なんですね。転載!

2015-08-05 08:35:38 | 真実の在り処
おそらく歴史や文化を総体的/相対的にみるためには、複眼的視点が必要で日本内部でも主流政府プロパガンダ的メディアと一般庶民の目線を大事にするメディアと、世界の視点を包摂したメディアなど、またインディペンデントメディアなどなど、一つの対象でも捉え方が異なってきます。

日本の戦争責任なり、近代から現代にかけて、その歴史は日本内外の多様な世界史の中でまた捉え返されてくるのは必然だろう。

美化されることは問題ですよね。←弁証法的に止揚?
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以下は「アリの一言」ブログより転載です!謝!玉音放送をあまり意識していなかったのですが、氏の分析はなるほどと思いました。
(なぜかInternet Explorer 6では転載したブログ論評がUPされず、ChromeからはUPされているようです。編集はChromeではだめに設定されているようです。またChromeからこのブログ記事も綺麗に読み取れないようになっています。かといってInternet Explorer 6は万膳ではありません。やれやれです!スマホには転載がUPされています。)
 
人間は天皇も含め自らの自己弁護をしながら生きる存在なのだろうか、と、一瞬考えさせられました。己の立場(スタンスやポジショナリティ)を保持(弁護)せざるをえない存在なのだろうか、自己批判なり自己処罰はできないのだろうか?限りない自己肯定が人(間)を生かしむるものなのだろうか?社会、コミュニティーなり国家なりの中における位置(ステイタス)が個人に与える責務(責任)とポジショナリティのもたらす役割、その自己保持(弁護)のために費やすエネルギーやシステム(装置)など、興味深い、と改めて考えさせられます。
 
責務ですね。大きなコミュニティーの長は、責任を取る必要がありますね。大勢の人間を不幸のどん底に落とした責任はどうなっているのでしょうか?
 
精神の自由はそうしたコミュニティーを背負った者たちの重責ゆえのステイタス【名誉・権力・富などの装置】の中にではなく限りなくそうしたシステムから遠いところにあるのかもしれませんね。⇔芸術家、ひたすら真実を追究する研究者、一般庶民?
ナショナリズム⇔グローバリズム?普遍主義?惑星思考(?)、地球は人類全体の安寧に寄与すべき(地球市民)?、特権のない民主主義?特権のない民主主義とはどんなものだろう?国家とは何だろう?地球村?
ナショナリズムとアイデンティティーはどうなのだろう?沖縄人、日本人、アジア人、地球人、人類?【深夜のつぶやき】
ちなみに前にも「アリの一言」さんのブログ記事を転載したことがありますが、その時、削除されることはありませんでした。GOOスタッフはタブー視しているのですか?表現の自由ではなく検閲なんですか?疑問です。

いまなぜ「玉音放送」なのか?http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara

この転載した記事がいきなりGOOブログから消えました。タブー化されたものゆえか?それとも転載が問題ゆえだろうか?関心のある方は「アリの一言」ブログごごらんください。「玉音放送」への分析がなるほどと思いました。アリの一言さんは多くの方に読んでほしいゆえに書いているブログだと思います。それがGOO当局によって検閲的に削除されるのは時代の「きな臭さ」を感じざるをえません。GOOはNTTが管理しているのですか?( 不思議ですが、Chromeからは掲載されているようです。このブログはChromeからの編集がうまくできない設定になっています。)この編集場面ではしっかり転載できているのですが、なぜかよくわかりません。取り合えずーEND.

 

2015年08月04日 | 戦争・天皇

         

 宮内庁が1日公開した「玉音放送」原盤をめぐり、「平和を実現すると決意した昭和天皇が、国民に直接協力を呼びかけた」(1日付読売新聞)、「天皇が苦慮した思いがひしひしと伝わる」(同朝日新聞)など、昭和天皇賛美が振りまかれています。NHKは「玉音放送」にひざまずく国民の姿を何度も映し出しました。

 いまなぜ「玉音放送」なのでしょうか。「玉音放送」とは何だったのでしょうか。

 そもそも、「玉音放送という命名は、支配階級の戦時の要求から決定され、それ以来、その意味を深く掘り下げられることはなかった」(ハーバート・ビックス『昭和天皇』)といわれ、それ自体きわめて政治性の強い言葉です。ここではカッコに入れて使います。

 「玉音放送」が流された8月15日が「終戦の日」とされていますが、まずこれが間違いです。
 日本がポツダム宣言の受諾を正式決定したのは8月14日。戦艦ミズリー号で降伏文書に調印したのは9月2日。「終戦記念日」は「9月2日」というのが国際的常識です。
 「八月一五日はただ『忠良ナル爾(なんじ)臣民』に向けた録音放送があった日に過ぎない」ので、「対外的に意味をもたない玉音放送の八月一五日が『終戦記念日』に選ばれた経緯に正面から向き合った研究はほとんど存在しなかった」(佐藤卓己氏『八月十五日の神話』)といいます。「玉音放送」=「終戦」の構図は意図的に作り出されたもので、それが今日にも続いているのです。

 その「国民に向けた録音放送」も、雑音が激しいうえ、天皇が読み上げた「終戦詔書」は言葉が難解で、ほとんどの国民は理解不能だったと言われます。
 「(終戦詔書は)国民にわかってもらうとか、理解しやすくといった発想が皆無であったということなのであろう。そこにあったのは、天皇の権威を示すための格式であり、内容的には日本の立場の弁解と体制の維持であった」(竹山昭子氏『玉音放送』)のです。
 その意味を、「玉音放送」の内容に沿ってみてみましょう。

 天皇が読み上げた「終戦詔書」には「終戦」「降伏」の言葉はありません。ポイントになるのは、次の3つの個所です。(1日付共同通信の現代語訳より。太字は私)

 ①「世界の国々と共に栄えるようにしていくことは、歴代天皇が残してきた手本であり、私もそのように念じてきた。先に米英2国に宣戦布告した理由も、実にわが国の自存とアジアの安定とを願ったためで、他国の主権を排し、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない
 ②「敵は新たに残虐な爆弾を投下し、罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害の及ぶところは計り知れない。それでもなお、交戦を継続すれば、ついにはわが民族の滅亡を招く・・・そのようなことになれば、私はどうして、多くのわが子とも言える国民を保護し、歴代天皇の霊に謝ることができようか。これが、私が政府に共同宣言(ポツダム宣言)に応じるようにさせた理由である」
 ③「私はここに国体を護持し得て忠義で善良な国民の真心を信じ、常に国民と共にある。もし、感情の激するままに争い事をしたり、同胞同士が互いに相手をけなし陥れたり・・・それは、私が最も戒めることだ」

 要するにその趣旨は、①侵略戦争の否定と自らの戦争責任の回避②ポツダム宣言受諾の釈明・正当化(原爆投下、民族滅亡、歴代天皇の霊)③戦後の国体=天皇制維持と国民の天皇(制)批判の抑制―にほかなりません。
 「平和の決意」どころか、自らの責任回避と天皇制継続の野心。これこそが「玉音放送」の中身なのです。

 難解な「玉音放送」に代わって、引き続き流された和田信賢アナウンサーの「解説」は国民に分かりやすかったと言われていますが、その「解説」は、「国民への大慈大愛を垂れさせ給う大御心の有難さ」などと、「天皇の『聖断』による平和の回復という点が、居丈高とも思えるような口調で強調され」(吉田裕氏『昭和天皇の終戦史』)ています。放送が権力に加担した最悪の例であり、天皇・支配層の意図はここに貫徹されています。

 「玉音放送」によって天皇が「愚かな戦争に最後のストップをかけた」などと言われていますが、それは史実を逆転させるものです。敗戦必至の状況で、天皇はもっと早く「降伏」を決断することができました。1945年に入って、少なくともそのチャンスは3回ありました。
 ①2月14日、終戦を進言した「近衛文麿上奏文
 ②6月上旬、中国戦線の敗色濃厚を進言した「梅津美治郎参謀総長上奏
 ③7月27日、ポツダム宣言発表
 ところが天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」(近衛に)などとしていずれも拒否し、終戦を引き延ばしたのです。天皇とその側近の念頭にあったのは、常に戦争責任の回避と、国体=天皇制の維持でした。

 近衛の上奏に従って終戦を宣言しておれば、その後の沖縄戦も本土各地の空襲も、広島・長崎の原爆投下もありませんでした。
 戦争をストップさせたどころか、自己と天皇制の保身のため、終戦を引き延ばし、筆舌に尽くせない犠牲をもたらした張本人が、天皇裕仁にほかならないのです。

 「玉音放送」のこうした内容、狙いを不問にしたまま、いま改めて大々的に取り上げることは、「戦後70年」の時点で新たに、侵略戦争否定、天皇の戦争責任隠ぺい、国体=天皇制維持の世論形成を図るものと言わざるをえません。
 しかも、「玉音放送」原盤公開が現天皇明仁の意向によるものだということはさらに重大です。

 そして最も問題なのは、70年前に天皇やその側近たちが「玉音放送」にかけた政治的意図が、まるでいまそのまま貫かれているように、メディアはこぞって「玉音放送」、天皇裕仁、そして天皇明仁を、「平和」のシンボルのように描き、多くの国民がそれに同調している(させられている)ことです。

 昭和天皇の侵略戦争責任、終戦引き延ばし責任を明確にし、今日に引き継がれている「天皇制」の問題を問い直す。それが「玉音放送」を検証する意味ではないでしょうか。


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