(琉球新報2018年10月31日(水))
沖縄芝居役者についてはもっともっと語られるべきだと感じている。主役級の役者や座長については、ある程度記録も作品も残されているが、時勢の浮き沈みがあり、沈みの中で浮上しない名優たちがいたに違いない。
余談だが、時代劇なりドラマを見ると、女性達が美しい。日本髪の女性達の着物姿がとても素敵すぎると思って見ている。あのように素敵な着物姿で日常を生活していたのかと思うと嘘のように思える。日常の雑事が綺麗な着物姿でできようはずがないと思ってしまう。階級社会なので侍女たちが日常を支えているならば、綺麗な裾を引きずって歩く着物姿で日々を優雅に暮らすことは可能だったのだろうか。
綺麗な着物姿で歩き回ることは不自由ではなかったのだろうか?女性達が武家の格式の中で、江戸の町でも、なぜか虚構のような美しさか、絶えず力に翻弄されているように、かよわさに揺れているように見えるのは、今もある程度本質の面で同じではないとも言えない。見え、虚栄を生きている世界だとはよく見ている者の弁である。
時代物のドラマの主人公たちは嘘のように一人で数人の敵対する者たち、悪が多い、あるいは食い扶ちを失った素浪人たち、主に用心棒が多いような、にたち向かう。拷問されても助かるのである。勧善懲悪が多いような物語構成!悪は成敗されるので、血なまぐさくても、遊女のような女性が多く登場しても、男に簡単に利用される女たちがいて、それを利用する男達と、その構図を正義の使者・騎士としてヒーローのような主人公が刀捌きも美しく、立ち上がるのである。弱い者たちがなぜかヒーローに助けられる物語が多い。残酷なリアリズムは実はフェイクでもあったが、現実はもっと残酷だったに違いないと思えてもくる。
中には文芸作品にいいのがある。言い文芸作品はやたらと立ち回りをさせない。(つぶやき)
時代劇の名作に秀作があるのも事実だが、テレビドラマのシリーズはパターン化している。大衆的な好みもあるのだろう。水戸黄門のように大衆受けするシリーズがあり、その中でも中村吉右衛門主演の「鬼平犯科帳」はリアルな筋立てと人情味とユーモアがあり、永遠の名作なんだね。人情の機微があり役者の表情や素振り、豪快さなど、いいね。
病人との付き合いで見ているのだが、女性達の日本髪や着物の美しさに見とれている。
鬼平犯科帳 (中村吉右衛門)