(なぜかウチナーのオジーたちよりオバーたちに気が満ちて見えるのはなぜでしょうか?)
沖縄で、名優として、やはり芸に情熱をかけ、身体と精神の高まりを見せたのは真喜志康忠さんでした。
そして宮城美能留さんですね。大宜見小太郎さんは、沖縄芝居の戦前の型を継承したのですね。
芝居を組踊や舞踊の息抜きのように、軽く演じていいと思っている皆さんは、問題ですね。
表面の型芝居は見透かされますね。二枚目の実在感、佐辺さんにはあるのでしょうね。
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宮城美能留さん
琉球舞踊家
専門:組踊
肩書:宮城美能留沖縄歌舞団団長
資格:重要無形文化財技能保持者(組踊)
本名:宮城 稔(ミヤギ ミノル)
生年月日:昭和10年 3月13日(同じ誕生日です!)
出生地:沖縄県 那覇市
学歴:那覇高〔昭和29年〕卒
経歴:琉球舞踊家・宮城能造の長男。昭和29年田代タカ子に「諸屯」などを、31年父宮城能造る、真境名由康、玉城盛義、上間朝久に組踊を学ぶ。32年宮城稔舞踊研究所を始め、45年宮城美能留沖縄歌舞団を結成。同年ソ連とポーランドで公演を行ったのを皮切りに、欧州、米国、北アフリカなど約30ケ国、80都市で公演、琉球舞踊を全世界に紹介する役割を担った。46年舞劇「パナリの恋」「悲恋瓦屋節」を発表して以来、歌舞劇の創作にも取り組んだ。47年本土復帰に伴い、組踊が国指定重要無形文化財に指定され、後継者に認定された。59年の沖縄伝統舞踊保存会の結成にも尽力した。61年末期癌に冒されながら組踊十番の一挙上演を成し遂げ、62年51歳で病没した。
没年月日昭和62年 2月22日 (1987年)
家族長女=宮城 早苗(琉球舞踊家)
伝記終幕の思想―演劇人の死 北川 登園 著(発行元 白水社 ’93発行)
皆さんはということは、相当数目に付くということなのですね。事実ならショックです。