(『土方巽 絶後の身体』日本放送出版界、2008年)
2010年、ミュンヘンの国際学会で、モーツアルトの生家のある街までのツアーバスの中で乗り合わせた稲田さんのことが気になっていて、彼女が物した博論をまとめた著書を紐解きたいと思いつつ時が経ってしまった。制度としての身体という言葉が印象に残っていて、沖縄(人)の身体や身体性とはどうなのだろう、と考えるきっかけになった。彼女や慶大の小菅さんたちが発表した土方巽のパネルも拝聴したが、土方の暗黒舞踏は映像として見ただけで、大野一雄さんの舞踊も録画放映を見ただけの経験である。彼らのお弟子さんたちがたまに沖縄のジャンジャンとか、その他で上演した生の舞台を見たことはあったが土方巽という舞踏神と称えられる日本を代表する舞踏家の生の姿はついに遭遇することはなかった。しかしこの分厚い稲田さんの書物を紐解き、写真を見ていると、大野一雄さんやお弟子さんたちの舞台が目に浮かんできた。土方さんは大柄な魅力的な風貌の男性だ。その彼が舞踏を演じると、もう渋沢龍彦、吉岡実、荒川洋子など、詩人に取り囲まれる日本の身体性を思想の風呂敷で包む存在になっていった様子がうかがわれる。
舞踏にはショックを受けたが、実は猿楽からはじまりひたすら抽象化、儀式化、透明性・無色的な虚・無、死者の静謐と荒ぶる思いなどを象徴として昇華させていったお能と同じ出自の兄弟のような対局にあるようにも思える。土のイメージ、虚飾のない素の自然の怨念や憎しみ、怒り、歓び、数多の生き物たちの恩執など、どよどよと地を這いずり回る爬虫類のような身体の蠢きを感じさせるもの、それが実は日本の混沌とした歴史の根に息づいていると、考えると、表の制度的な形〈形態≫に反乱をもたらす身体の威力、に見えるのは確かだね。←凄い。しかし、亜熱帯の島、琉球諸島には似合わないような匂いが漂う。春駒の所作の根にもそれは感じられる。舞踏家と春コマは兄弟のような、地下の身体のようなイメージがある。
亜熱帯の島の身体・身体性の中に似た所作や動きは実は滑稽な間のモノ的な動きの中に潜んでいるように思える。しかし暗黒には程遠い亜熱帯の明るさが伴っている。バジルホールがとても女性的だと称したかつての琉球人の身体・身体性が意識に上る。遊郭の座敷で裸踊りをさせられた男たちや女たちの屈辱的な身体の蠢きからもっと感じたいものが残っている。
稲田さんのこの書籍は分厚く593ページもある。ぱらぱらめくっていたが、じっくり読みたい。
身体・身体論・身体性に、今、関心があるゆえだ。
普段の顔はなかなか味わい深い。
詩人たちの名前が並んでいる。舞踏の闇は日本の闇か?