志情(しなさき)の海へ

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「さかさま執心鐘入」は、初演と再演を融合させて、分り易いデイコンストラクトな面白さでしたね!

2017-03-28 00:33:15 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

70代以上の余裕ある女性たちが「面白かったね」「全く逆さまだったね」と満足して会場でゆんたくする空間だったのです。大城立裕作品は、本歌取りだけれど、パロディータッチで、しかし鬼として成仏できない宿の女の霊に応える。初演の時すすり泣いていた女性はもはやいない会場だったのだろうか。笑いがはじけた。

1部、11部のプログラムについて印象批評をしたい。「さかさま執心鐘入」の方は、第一回、二回と今回は三回目の舞台です。両方をうまく融合させた舞台になっていましたね。役者も一部入れ替えはあったけれど、金城真次から知花小百合へ、石川直也から川満香多へでしたね。女2は石川さんとばかり思っていたので、後で川満さんと気がつくと、どおりで女の身体が大きかったのだと納得、場を圧倒する幽霊になった宿の女(鐘楼にまとわり付いている死霊)だったのだ。つまりこの「さかさまの主人公は彼女」ですね。

まず第一部の語り組踊り「執心鐘入」の字幕は日本語訳ではなく、オリジナルの組踊本でした。台本は微妙に異なるのがあるのだが、どのバージョンか、普通に組踊保存会が実演している台本だったと見ていいのだろう。唱えと地謡だけの舞台である。40分唱えは若松の新垣 悟さんと宿の女の親泊久玄さんの味わいが良かったですね。石川直也さんと新垣、親泊の小僧たちも中々臨場感がありました。親泊さんの宿の女の独特な艶のある声音と唱えが際立っていました。若松も普段女形を唱え演じている新垣さんですが、落ち着いていましたね。地謡は安冨祖流と野村流の競合でしたが、さてどこが良かったのかというと、野村流でしたね。仲村逸夫さんの声音・歌三線いいですね!

聞く組踊も悪くないですね。御殿・殿内で唱えや歌三線が大いに成されたことは想像できますね。おそらく湛水親方も入り浸っていたとされる仲島遊里などでも歌三線は盛んだったでしょうし、1719年には辻のジュリ[芸妓]は間切(村)に招聘されて芸を披露している時代ですから、ユカッチュたちが遊里でもおおいに唱え、歌三線で同じようなことをやっていたのでしょうね。

二部の「さかさま執心鐘入」は額縁舞台内に三間四方の舞台を設置さらに背景幕が掲げられてその背後に地謡が座し、その前に七段の階段の台の上に鐘がつるされていて、舞台の背後に壁が二枚、屏風代わりのようなものでしょうね。写実と抽象的なシンプルさが溶解し合った舞台ですね。それほど違和感はなかったですね。鐘楼とその鐘にまとわりつくそこから離れない宿の女の霊が中心ですからね。

笑いがはじけるのは、かつて中城若松が隠れた鐘に宿の女がまとわりつき、首里から男に追いかけられていると思い込んだ中城のみやらびが鐘の中に身を隠すのですから、面白いですね。「逆さま」だねと観光客らしき女性も声にします。女がご法度だった末吉の寺は当の若松が首里御奉公の帰りに立ち寄ると、男はご法度と3人の小僧たちは、今度は逆に男を退けようとします。逆さまにすると、パロディーになりますね。

宿の女に追いかけられて寺内に助けを求めた中城若松である。今や男に追いかけられて同じ鐘の中に隠れるみやらび、そこには先客がいた。亡霊になってなお若松を慕う女の悲哀も一瞬走った。しかし物語は歌舞・音楽のはれやかさを伴う。

鬼とみやらび、意地の強さ、かーぎのちゅらさがにらみ合う。亡霊になった鬼と浮世のミヤラビが対峙する奇想天外な展開である。みやらびに妬く亡霊。

書いた時はみやらびはいないと朝薫が登場する舞台。鬼になり亡霊になり鐘にしがみ付く宿の女に「此の世の運命と諦めなさい」と、朝薫は通り一遍のことばを投げかけるだけである。しかしパロディーとはいえ作者を登場させるポストモダン、脱構築の現代演劇バージョンは、にんまりさせられる。新劇ミュージカルである。小僧達がすべてを溶解させ、帰結させる鍵をもっている。成仏を誘う、魂乞いの歌舞である。すべからく成仏する仏心が流れる。清濁、善悪、煩悩を清める歌舞祈祷の結末に、笑みがこぼれ、手拍子が起こる。

沖縄ならではの肝心の終わり方、かつて幸喜良秀の舞台がいつものようにカチャーシーの乱舞で終わった姿に重なる。そうして痛みを慶びを止揚させてきた島人たちの生きる縁の姿だ。かき混ぜで、総てを歌舞でシムルにして、解放してあげる肝心である。

化粧が歌舞伎的で、唇の赤が冴える。組踊のお能的な要素はここでは若松のスタティックな美と唱えが貫いていただけだ。歌舞伎の俗が生きた空間である。それにしては白い。チャンプルーの魅力は、女みやらびの登場にも現れている。化粧を抑えた舞台が見たくなるのは事実だ。座主の肌色でいい小僧たちではないのだろうか?道化、マルムンとしての小僧たちが生き生きと跳ね回る。

村のミヤラビの踊り姿が赤い唇に都会的な現代女性のお化粧である。やれやれ!それはどうもで演出のコンセプトのブレがあるようだ。

新しい音楽劇ですね。歌舞であることに違いはないが、創作曲があたりに響き小僧たちが踊る。寂しく鐘の中におさまるかに見えた亡霊に小僧たちはその霊を成仏させるようにお経を唱え、踊るのである。皆に勇気を与える歌舞である。

台詞を越える行間の所作や歌舞のもつ面白さが演出の手だね。宿の女の魂が今度こそ成仏したのだ。良かったですね。元々化身や女の鬼の観念は、琉球のものではない。それも道成寺の翻案であり、いわば大和の観念を琉球風に濾過してみせたのが『執心鐘入』である。

意識・無意識に受容された観念が作品になっていく。その一例だが、意識が無意識と手を取り合って浸透してきた姿である。それを300年を経て大城立裕さんは、歌舞で呪縛を解き放ったのである。女に色目を使う小僧たちと座主の俗で解いたのである。そこには儒教の縛りも仏教の戒律もない。あべこべの現世を透けて見せている。

舞台美術で七つ橋のような七段の階段が設置された。幽霊の元宿の女が階段を下って来る時、階段に三角形の鱗形模様をくっきり描いていたのが印象に残っている。鬼女の痕跡がそこに残されていた。鬼のままのさ迷える女の魂なのである。それが成仏したという物語になっている。


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