一つのことに集中しているとやがて見えなかった事柄が不思議と見えてくることもある。それで今頃書いている事柄が面白いと感じている。ことばを紡ぐ行為はカオスの中から秩序をもたらすようにある考えに形を与えるということである。それが論理的に誰が読んでも納得いくかどうかが試される。ことばを積み上げる行為は一つの快楽なのかもしれない。それは多様な快楽の中の一つで、パトスの快楽のようなもの?しかしどれだけ積み上げてもそれにどれだけの意味性がありえるか、は他者の視点にゆだねられる。だから言い訳はダメなんだと詩人が繰り返して言う。女には甘えがあるのだろうか?男との違いなのかもしれない。甘えは許されない。言い訳は許されないという。ことばを表現する行為を持続的に取り組んできた者の厳しさのようなものなのだろうが、論稿にしてもエッセイにしても同じだろう。そこには男女の違いはないに違いない!「書いた詩篇にどれだけ自己満足しても他人様がいいと認めて共感しない限りそれはマスタべーションにしかならない」と、ひねもす詩を書き続ける詩人が言う。まぁいつも聞きあきるほど言っているフレーズである、
一方で人はどれだけ言い訳しても言い訳し足りないのだと思っている思いもある。言い訳はいい。いくらでも言い訳をしていいのである。その上で当人が納得し、他者も納得したらいいのである。言い訳は許されないということばを博士課程のゼミでも聞いた。男たちは主体としての社会のシステムの中で生かされているゆえに、あらゆる領域で権威なり権力のミニピラミッドを生き生かされているのだろう。その周辺にいる女たちの数もたかがしれている。そうしたシステムの中で、彼らは、やはり内なる剣を持ってそれぞれに闘っているのである。その姿がある面で「いとおかし」でもある。
学生たちに対して学問は一つのプロセスだから[言い訳」を認めている。言い訳も知恵であり、才覚である。真実がこもっていなければ後でしっぺ返しがくるのだから、すべて自らのことばに返っていく。だから弁解を認める。あるKという沖縄の詩人が台風時に出勤しなかったことの弁明に大学ノート一冊分の文章を書いた、という逸話が詩人仲間で語り草になっているらしいのだが、その詩人は今は精神病院に住処を得たようだ。最近比嘉さんという詩人が、その詩人Kの「ある仮定のもとに書かれた膨大な観念詩」を批評した、と聞いた。
女たちは独身でないかぎり、多様な雑事に取り囲まれている。あれをやりこれをやりそしてそれもである。だから集中して一つの事柄に向き合う時間的猶予は限られてくる。詩人とのこの間のいさかいの中でよく「物事を輪切りにする」というフレーズがあった。一直線に切り込んでくることばの刃の中で他の事を考えている女がいた。そしてこんな男の観念なんか豚に食わせろと思っていた。男の哀れさがあった。別にこのことばの洪水に一緒におぼれる必要はないから、だからどうかこの空間からお引き取りくださいと言い返したりしていたのだった!
男たちのことばの世界、この人類の歴史は男たちのことばであふれかえっている。女たちの声?ことば?どこにあるの?意外と男たちは自らのことばの暴虐な王になり女たちを痛め尽くしている、のも否めない。すでにあなたは主人でわたしは僕である。それにしても主人ということばもまさに従属関係そのものである。主人と妻?わぁ!なんてことばだ!主人は女の身体もいつでも我が物にできる王である?!その辺は微妙だが、主人を拒絶する妻たちも多いのであろうし、夫婦関係のセクシュアリティーでも暴力行為として妻が夫を法廷に訴えることもできる時代ゆえにーーー、Sexuality&Genderのありようは複雑になっているのだろう!
一回限りの人生である。いつか永遠の眠りにつくその日まで、いったいどんなことばを生み出せるのだろうか?
試行錯誤しながらも前に進みたい。淵があったらそれを越えて行こう!
それよりこの論文は仕上がるのだろうか?
毛利先生が受理しなくてもまとめなければならないテーマである。
<2011年が不思議に満ちた黄金の輝きにあふれますように!冬のオオゴマダラに魅了される年末年始!>
<写真は二階のベランダから見た元旦の陽光、雲の間から光が漏れている!>
一方で人はどれだけ言い訳しても言い訳し足りないのだと思っている思いもある。言い訳はいい。いくらでも言い訳をしていいのである。その上で当人が納得し、他者も納得したらいいのである。言い訳は許されないということばを博士課程のゼミでも聞いた。男たちは主体としての社会のシステムの中で生かされているゆえに、あらゆる領域で権威なり権力のミニピラミッドを生き生かされているのだろう。その周辺にいる女たちの数もたかがしれている。そうしたシステムの中で、彼らは、やはり内なる剣を持ってそれぞれに闘っているのである。その姿がある面で「いとおかし」でもある。
学生たちに対して学問は一つのプロセスだから[言い訳」を認めている。言い訳も知恵であり、才覚である。真実がこもっていなければ後でしっぺ返しがくるのだから、すべて自らのことばに返っていく。だから弁解を認める。あるKという沖縄の詩人が台風時に出勤しなかったことの弁明に大学ノート一冊分の文章を書いた、という逸話が詩人仲間で語り草になっているらしいのだが、その詩人は今は精神病院に住処を得たようだ。最近比嘉さんという詩人が、その詩人Kの「ある仮定のもとに書かれた膨大な観念詩」を批評した、と聞いた。
女たちは独身でないかぎり、多様な雑事に取り囲まれている。あれをやりこれをやりそしてそれもである。だから集中して一つの事柄に向き合う時間的猶予は限られてくる。詩人とのこの間のいさかいの中でよく「物事を輪切りにする」というフレーズがあった。一直線に切り込んでくることばの刃の中で他の事を考えている女がいた。そしてこんな男の観念なんか豚に食わせろと思っていた。男の哀れさがあった。別にこのことばの洪水に一緒におぼれる必要はないから、だからどうかこの空間からお引き取りくださいと言い返したりしていたのだった!
男たちのことばの世界、この人類の歴史は男たちのことばであふれかえっている。女たちの声?ことば?どこにあるの?意外と男たちは自らのことばの暴虐な王になり女たちを痛め尽くしている、のも否めない。すでにあなたは主人でわたしは僕である。それにしても主人ということばもまさに従属関係そのものである。主人と妻?わぁ!なんてことばだ!主人は女の身体もいつでも我が物にできる王である?!その辺は微妙だが、主人を拒絶する妻たちも多いのであろうし、夫婦関係のセクシュアリティーでも暴力行為として妻が夫を法廷に訴えることもできる時代ゆえにーーー、Sexuality&Genderのありようは複雑になっているのだろう!
一回限りの人生である。いつか永遠の眠りにつくその日まで、いったいどんなことばを生み出せるのだろうか?
試行錯誤しながらも前に進みたい。淵があったらそれを越えて行こう!
それよりこの論文は仕上がるのだろうか?
毛利先生が受理しなくてもまとめなければならないテーマである。
<2011年が不思議に満ちた黄金の輝きにあふれますように!冬のオオゴマダラに魅了される年末年始!>
<写真は二階のベランダから見た元旦の陽光、雲の間から光が漏れている!>