母に会いに元旦の夕方はヤンバル詣でをする。書きかけの論稿を持ち、資料を詰め込みノートパソコンまで持っていった。しかし書きかけの論文を読み返す時間はあっても、ゆっくりPCに向き合う時間はもちろんなかった。庭の草花に水をやるまでに回復している母の姿に安堵するが、年末からずっとつきそっている妹や姪に感謝!
いっしょにおしゃべりをしてテレビの前で「相棒」など見たのだった。昨年結婚したばかりの甥カップルも来て話は弾んだ。彼らは新婚旅行にイタリアに行った話をした。イタリアで買ったという優子さんの濃いオレンジ色のスカーフが素敵だった。色が目に焼きつく。
オオゴマダラの黄金色がなぜ黄金なのか、黄色い色素のせいではなくそれが構造色だということはわかったが、それでもホウライカガミの植物に毒があり、その毒を身体にため込んで毒をもっていることを天敵に知らせ、自らを守るという昆虫の生態(生きる手立て)について、メタファーが思い浮かぶ。黄金のさなぎは孵化する時は真っ白になる。オオゴマダラは白と黒の模様が美しい蝶になるのである。
光と色のしくみについてネットで少し知ることができた。美術や物理の授業で学んだ記憶が残っているが、光の三原色が赤と緑と青だということ、そして色の三原色は、シアン、マゼンダ、イエローだということなど。光の三元色を全部混ぜると白になる!色は三色まぜると黒になる。物理の時間になぜ空は青く見えるか、なぜ夕日は赤いのか、教えてもらった記憶は残っている。すべて異なる光の拡散であり光を感じる錐体・視細胞との関係なのらしい。両生類や鳥の錐体が4種類だという事は、哺乳類より色の感性・感覚が優れているということであり、やはり興味をもって覗いてみた「構造色」についてのサイトには美しい色彩の昆虫がたくさん紹介されている。
まさに生きた宝石、アラウタやパプキン、玉虫などの色の美しさにただため息をつくばかりである。虹色の甲虫もまた惹きつけられる。紫色のパプキンも黄緑のパプキンもまたーーそれらの色彩の光沢の前に自然の豊かさ、美しさにいかなる人工的な美もかなわないのだとーー、自然界の不思議にただ思いが走る。身近な生き物たちの中に秘められている多くの不思議!そこからまた人間は科学技術のメスを入れ、原理を取り出し、新しい何かを生み出していくのだろうが、そこに満ち溢れる生命の不思議は不思議として見つめていたい。すべては太陽の光が源のような命の不思議に収斂するのだろうか?太陽信仰が大きな位置を占めるのもまた不思議ではない自然界の営み、その大きな流れの中に人はまた生かされている。
限りある命の輝きを生かされ生きている多くの命があり、その全てが調和し、命の連鎖を生き、生かされ、犠牲になり犠牲を強いて生き続ける、多くの生命体の不思議にただ首を垂れるのみ、そしてひたすらに今をたゆたう。優しい眼差しでいい。生きているあらゆる存在に優しい眼差しを向けることができたらいい。しかし生きることはまたひたすらに喰うことであり、何を喰って生きるか?命を喰っていきている存在でもあることは痛みを伴う行為である。存在のどうしょうもない原罪意識がそこに派生してくる。命を喰って生きています。ありがとう。今日の命を生きながらえていることに感謝?!「負債論」が思い出される。お返ししなければならないのである。何らかの形で生き生かされていること、この世界の恩にお返しをする。どのように?身近な者たちへ「いつくしみの心」を分け与えること、そしてできることを還元していく行為が求められている。反省!
<写真は再び1月2日夕刻前のオオゴマダラのさなぎ>
いっしょにおしゃべりをしてテレビの前で「相棒」など見たのだった。昨年結婚したばかりの甥カップルも来て話は弾んだ。彼らは新婚旅行にイタリアに行った話をした。イタリアで買ったという優子さんの濃いオレンジ色のスカーフが素敵だった。色が目に焼きつく。
オオゴマダラの黄金色がなぜ黄金なのか、黄色い色素のせいではなくそれが構造色だということはわかったが、それでもホウライカガミの植物に毒があり、その毒を身体にため込んで毒をもっていることを天敵に知らせ、自らを守るという昆虫の生態(生きる手立て)について、メタファーが思い浮かぶ。黄金のさなぎは孵化する時は真っ白になる。オオゴマダラは白と黒の模様が美しい蝶になるのである。
光と色のしくみについてネットで少し知ることができた。美術や物理の授業で学んだ記憶が残っているが、光の三原色が赤と緑と青だということ、そして色の三原色は、シアン、マゼンダ、イエローだということなど。光の三元色を全部混ぜると白になる!色は三色まぜると黒になる。物理の時間になぜ空は青く見えるか、なぜ夕日は赤いのか、教えてもらった記憶は残っている。すべて異なる光の拡散であり光を感じる錐体・視細胞との関係なのらしい。両生類や鳥の錐体が4種類だという事は、哺乳類より色の感性・感覚が優れているということであり、やはり興味をもって覗いてみた「構造色」についてのサイトには美しい色彩の昆虫がたくさん紹介されている。
まさに生きた宝石、アラウタやパプキン、玉虫などの色の美しさにただため息をつくばかりである。虹色の甲虫もまた惹きつけられる。紫色のパプキンも黄緑のパプキンもまたーーそれらの色彩の光沢の前に自然の豊かさ、美しさにいかなる人工的な美もかなわないのだとーー、自然界の不思議にただ思いが走る。身近な生き物たちの中に秘められている多くの不思議!そこからまた人間は科学技術のメスを入れ、原理を取り出し、新しい何かを生み出していくのだろうが、そこに満ち溢れる生命の不思議は不思議として見つめていたい。すべては太陽の光が源のような命の不思議に収斂するのだろうか?太陽信仰が大きな位置を占めるのもまた不思議ではない自然界の営み、その大きな流れの中に人はまた生かされている。
限りある命の輝きを生かされ生きている多くの命があり、その全てが調和し、命の連鎖を生き、生かされ、犠牲になり犠牲を強いて生き続ける、多くの生命体の不思議にただ首を垂れるのみ、そしてひたすらに今をたゆたう。優しい眼差しでいい。生きているあらゆる存在に優しい眼差しを向けることができたらいい。しかし生きることはまたひたすらに喰うことであり、何を喰って生きるか?命を喰っていきている存在でもあることは痛みを伴う行為である。存在のどうしょうもない原罪意識がそこに派生してくる。命を喰って生きています。ありがとう。今日の命を生きながらえていることに感謝?!「負債論」が思い出される。お返ししなければならないのである。何らかの形で生き生かされていること、この世界の恩にお返しをする。どのように?身近な者たちへ「いつくしみの心」を分け与えること、そしてできることを還元していく行為が求められている。反省!
<写真は再び1月2日夕刻前のオオゴマダラのさなぎ>