(空に惹かれる、ひたすら空が身近にある!)
先日、ポスト・モダニズムではなくポスト・ヒューマニズムについてお聞きした。ポスト・ヒューマニズムは紙面でもあまり登場するキーフレイズではない。それで気になって調べてみたらとてもいい論文が紹介されていたので読んだ。
ネットではポスト・ヒューマニズムに関してネット辞書での紹介や多様な視点がある。ロボットや超人間を思考した考えがあったりする。ここはどうネットリタラシーの能力を発揮するかによって受け止め方が異なってくるのだろう。
論文「生命地域主義における人間観:人間と場所の問題」 開 龍美氏の論稿がネットで読めます。上智大学人間学紀要(39)です。
生命地域主義=場所に相応しい生き方の意識化と実践に取り組む地域主義的な環境思想運動であると定義しています。
引用:「『野生の実践』においてスナイダーは自らの立場をポストヒューマニズムと呼び、ポストヒューマニズムの「ポスト《次の》」という言葉は「真の人間」のためにあり人間の尊厳を否定するものではないとしたうえで、むしろ私たちは自然生態系全体の中で人間であるとはいかなることであるかを検討し、エコロジカルな関係に基づくレトリックを用いて、すべての存在を交えての対話に入るべきであると言う。(snyder,1990,68)」
「人間がどのような責任や関心をもつにせよ、まずは人間中心的意識から、自然界全体を視野に収めた価値観に転換するべきなのである。そのなかで初めてヒューマニズムを新たに捉え直すことができる。」
「グローバリズムとモノカルチャーを批判し、生命地域の固有性・多様性に基づく文化的多元主義を重視する生命地域主義においては、ローカルな次元からグローバルな次元・普遍性の次元へどのような通路が開かれているかという問題である。」
「地球全体を視野に入れたエコロジカルなコスモポリタニズムの生き方の確立」を詩人スナイダーは提唱している。
つまり「一つの場所を宇宙的な視野で眺める」
「場所との一体化の中で場所の感覚を養い、自らのアイデンティティーを確かめながら、その特定の場所で地球という惑星のヴィジョンを全体性の感覚として自らの心に映し出す者、これが生命地域主義における「所を得た人」の在り方である。
ゆらゆら風に揺れる雑草の白い花
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以上は論稿からの基本的な考えの引用だが、従来の人間中心主義の考え、人道主義の考えを超えたところは、自然界全体=地球総体を視野に収めた価値観ということであり、国家や地域ナショナリズムを凌駕する点はコスモポリタン=地球市民的志向に通じるが、エコロジカルなコスモタリズムとあえてエコーが強調されている。地球生命体の存在なくして人間の存在はありえないし、多くの無数の生命体の存在と共になりたつ自然環境に生きる人類であることは紛れもない事実で、その考えは昨今の地球的規模の趣向性やガイヤ理論、多生物・多言語・多文化趣向(生物多様性・言語多様性・文化多様性)とも重なる志向(思潮)でもある。
《場所との一体化の中で場所の感覚を養い、自らのアイデンティティーを確かめながら、その特定の場所で地球という惑星のヴィジョンを全体性の感覚として自らの心に映し出す者、これが生命地域主義における「所を得た人」のあり方である》この所を得た人の考えは、つまり沖縄にいて、その島との一体化の中で島空間(琉球弧)にアイデンティティーを持ち、その場所にいて地球という惑星ヴィジョンを自らの意識の中に取り込むことのできる感性ということになるのだろうか。
グローバル=ローカルな感覚の中にあり、それにネット・ウェブ界も日常の中にあり、もはや世界は隣にある。ネットのつながりでそれはますます感じられるようになった。
疑問はネバダ州の大自然の中で生活する人間よりも東京、北京、沖縄では那覇、浦添と多くの人間が都会に住んでいるという事実である。都会に住む大勢の人間がいかに場所との一体化をアイデンティティーをエコー感覚で地球を取り込み、エコロジカルなコスモポリタンとして生きることが可能か、ということである。都会の人間にとってのエコロジカルな場・空間と地球市民的感性の重なりはどのへんで結びついていくのだろうか?
生命地球の固有性・普遍性と都会の生活についての論の展開が見たい。生態地域主義と人工都市との関係が知りたい。琉球弧の島々の場合、御嶽信仰とニライカナイ信仰は生態地域主義と重なる要因は大きいと思う。アニミズム的な自然との一体感を根にもってきた歴史や文化であり、そうなるとアメリカインディオやアジア的感性・世界観の中にすでに包含されていた論がポスト・ヒューマニズムということになりえるのだろうか?
別に西欧の文芸、その作者の思想を借用するまでもなく、身近な歴史・文化・伝統の中に新しいイズムがすでにあったということである。自分で知的フレームを創ることが大事なようだ。西洋の論理も突き詰めれば何が真実かであり、人間とは何かである。はやり自らの足元を掘ることですね。
ありがとう!すこし脇道にそれたけどいい発見でした!西欧の文芸が必ずしも全て優れているわけではない。この琉球弧の表現もまた固有でユニーバーサルで世界を地球を包含する視点が散りばめられている!見えないものを見る。新たな視点を一つ付け加えることができるかどうかだなー。恐れず、掘ってみよう!
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ですが牧志、壺屋、松山、泊等、地域ごとで言葉が少しずつ違い、青年会や旗頭もそれぞれある。集落のイビガナシ?があるところもあるみたい。自然は少ないかも知れないけど、地域ごとの小宇宙が無いことは無い。
徳之島を経由している私にどのコミュニティが体質に合うか今考えています。
沖縄でももちろん地球全体との関係を意識したい。先祖とも繋がりながら生きたい。
街の顔が変わっていくなかで変わらない景観もあることはありますが、ほとんどが化粧を施して変わっていく街の盛衰を見ると、考えさせられます。街が自然を取り込んだ姿に蘇生するための大胆な発想・企画が必要でしょうね。首里などは瓦色の街に変わりつつあります。それも観光(財産)美としての再現ですが(やはり人工的な美観ですけど)古めかしい装いにしていますね。
再創造される街並みです。それもよしとしても、窒息しない街であってほしいですね。街のハズレはまだ他の御嶽があり、蝉時雨も聞こえてきます。それらが亡くならないこと念じています。
以前留学から戻ってきたとき、那覇から石川まで自然があまりないなーなどと感じました。キャンプなどをして少し自然を感じたのですが、内外の自然を取り戻す人生はいいですね。でもなかなかの時もー。身近な小さな生き物たちに驚きを感じる一時がなんとも言えない歓になったりします。