志情(しなさき)の海へ

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『料亭アビー』『チージアビー』は男目線の評価だねとKさんは話した。仲村先生への反応の一つ!

2016-03-20 21:06:38 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

仲村善信氏のご発表への反応の一つ:

 料亭アビー、チージアビー」はさってぃむさってぃむだとカナやカメがいたら言ったに違いないとkさん。キンキンした高音の歌という説明は女性たちを見下した視線である。

「多嘉良朝成はカナの声に惚れて通った」のだと言っていた。

カナも朝成の声に惹かれて劇場に通ったのだ。

二人の接点は劇場であり妓楼である。

 古典は楽譜どおりで民謡はそれからはずれている。古典が上だとのプライドがまかりとおっている。しかし八重山のトバラマーや宮古のナークニーは古典に優るとも劣らない魅力だ。ナークニーは凄い。

 両方こなした女性たちの技量を差別視している仲村氏の男目線がある。←必ずしもそうではなく実証的に女性の声、歌、調子を分析している研究者の眼差しがあるのも確か!

 なるほどだと思う。

仲村さんはあくまで古典に優位性をおいた視点、「古典の大家がいてチージの芸妓の芸が磨かれた」の視点である。独自性はどうなのか?「優れた男達がいて、女たちは教えをうけて芸を磨いた」の視点である。男は主で女は従の視点である。←それを建前としてヘタイラの琉球の女たちは実をとったとも言える。

 仲村氏の視点は、琉球音楽の古典奏者たちの大方の見方だろうが、遊里・遊廓で女性たちはおおいに古典も民謡も歌ってきた。古典の大家達以上に座敷で歌ってきたのは彼女たちである。

 仲村氏が優れた6人の女性歌者を料亭アビー、チージアビーと見下した紹介をしたのは氏だけではなく古典をたしなむ大方の男性陣の視点だともいえよう。「それはおかしい」というのが、こちらの考えである。

 主と従者の関係ではなく相乗性があったのである。古典の大家たちはチージの芸妓と歌合せをして鍛えられてきたのだとも言えようか。

歌は愛の歌である。「思い」である。思う人への愛の歌が原点だろう。

 古典が上で民謡は下の視点も問われよう。古典はどこからどう登場してきたのか?

士族層を中心に三線音楽が発展してきたのは確かだろう。しかし、羽地により遊里が公にできた1672年前から芸妓の女性たちが存在していたのだ。宮廷では城人(ぐすくんちゅ)と称された女性達が存在した。彼女たちが慰安や弔いの音楽を担っていたがそれが男達に代わっていったのだね。変わった背景に薩摩や清との外交の事情もあったと推定できる。 

韓国ほどの儒教社会の厳格さはなかったのかもしれないが、男尊女卑的な家父長制度が貫かれていた琉球であり近代沖縄である。

しかし仲村氏のご研究、その論文はこの間だれも提示しなかった優れたものに違いない。それからさらにどう女性歌者たちを評価していくか問われている。料亭アビー、チージアビーの蔑称は昔の名残ということになるのだろうか?川原乞食と蔑まれた歌舞伎役者が日本国を代表する文化の象徴の現在である。琉球・沖縄で蔑まれ、尾類と近代前後に人間と別種の漢字をあてがわれた女性たちの芸こそが、琉球芸能の水脈の底を担ってきたのかもしれないのだ。差別されながら憧れの対象であり琉球の美を代表した女性達をもっと歌舞伎役者の現代のように評価していい時期だね。最もジュリの女性たちは現存しないが、彼女たちの係累、子孫が戦後を担っているのである。それも真実の一つである。

前近代そして近代において辻の女性たちはプロフェッショナルであったゆえに間切の村の芸能の指南役として招請を受けたのである。彼女たちこそが芸の主だったとも言える実証は残されている。間切の男達は性の対象としてではなく芸の師匠としてジュリ(芸妓・舞妓)の芸を尊重したのだった。


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