石川真生さんの50年間にわたる写真家としての歩みを垣間見るに、そこには生きている現場や空気を、自らも被写体にして、撮る凄まじさ、自然体かもしれない、対象を見据える冷徹な目があったこと、それは己の剥き出しの生の在り方そのものも含めて、日記感覚で写真に撮ったようなイメージが浮かぶ。
とても普段着のように率直な方で、人間が好きと言い放っているように、気楽に話しかけることができる女性、意外と若い女性たちから人気があるのかな、と思ったことがある。
多くの女たちは、男たちも、装うことが当然の世界に生きているゆえに、装うことを取っ払ったような真生さんの姿は、逆にあこがれになってしまう。
自らを飾る必要がないことそのものに、憧憬の念をもってしまう。いかにきれく、かっこよく、スマートに見せるか、私たちは普段に、装っているので、無地の魅了が反映される。
疲れなくていいね。それは例えば、身体が壊れた時、病気やケガや心理的なトラウマや落ち込みの時、わたしたちは装う余裕などない。人に会いたくもない。一人部屋に引きこもってひたすら寝たくなる。あるいは、寝ていなければ、スマホやPCの前でかなたの世界に陶酔したりする。
その一人の素の姿が写真に撮られたらどうだろう。それが我を超えた我になるのだろうか。
真生さんの写真は、けっしてきれくはない。きれくは見えないモノトーンの生活の素の現場がそのままストレートに活写されているように見える。
装いがないのだ。装うのは、外部にたいする構えでもあるが、それがないと自我が壊れるところがある。壊れることのない自我は、必死であり、素の心地よさを持っている。
人間が好きな彼女の写真は多くの世界の主人公たちが生き生きと迫ってくる。誰もが主人公のこの世界を泳いでいる。
電話口で、家族さえも冷徹に撮ってしまうと、彼女は話していた。癌の闘病生活中の母親の、決して麗しい姿ではありえない生身の痛みを、老いを撮らざるを得ない自らの写真家としての業のようなものを、悲しくも、宿命としてとらえているのだと、感じた。限りなく、対象にきりりと向き合う姿は、どことなく分かる気がした。
父が病室で亡くなった時、カメラを向けていた。甥が嫌な顔をしていたことが思い出される。記録として残したいという気持ちと、生死の総てを見据えたいという思い、死者に対して不遜だという思いを超えてしまうものがある。
リアルという事の凄さやおぞましさがある。
永遠の死者としての私たちの思い(視点)からとらえると、一瞬一瞬が貴重な命のアートのようにも思える。すべからく、人は皆それぞれの人生の断片の積み重ねを生きているが、それは貴重な何かでありつづける、と思う。
ホモサピエンスとしての、類を生きている。かつそれぞれの属性や立ち位置があり、異なる文化圏で生きている。しかし、文明の利器は多くの類似性をもたらしている。立ち位置は異なる。自らのよってきた歴史の現在に依拠している。それは無視できない。
培ってきた歴史の現在なのだ。
石川真生さんは、足元を掘ってきた~。沖縄在住の男性カメラマンとはまた微妙に異なる女ならではの視点で~。
いいね。
おそらく優れた芸術作品は階層などのヒエラルキーをも無化してしまう。一篇の詩、一枚の写真、絵画、小説、音楽、多くの人々の心を惹きつけてやまない芸術を生み出す人々には憧憬の念が膨らむが、物理的な富や財宝に包まれた層には、特別な感慨は起こらない。しかしお金が社会を動かし変容させるのも事実だ。お金によって一部の層のために書かれた論文も多いとか~。メイン・メディアもお金(投資家)に魂を売って真実や正義の追及を、報道をゆがめる。
一人一人の中に巣くっている美への、真実への想いがある。宗教的陶酔、生きるための糧、よりどころもある。いかに生きるかは多様。わたしたちの立ち位置はつねに問われている。
相変わらず救急車がうなっている!
この現実の摩訶不思議はおおっぴらに、トリックがなされる現実でもある。
石川真生さんは、沖縄の地における虚構に切り込んできた写真家。
日本国やアメリカの嘘や抑圧の中で、その作られた仕組みに恭順していく、支配層も住民の姿もある。生きるために、お金という神に右往左往させられている現実もある。解き放たれることができるか、できないのか。
多数決による議会制民主主義の鞭と飴も降ってくる。真実のありか、が絶えず問われている。What is the Truth? それが唯一の大きなテーマなのかもしれない。そして、それは永遠の問であり続ける。。