先ほど昨夜お借りした「この世界の片隅に」上・中・下を読んだ。中身はほとんど忠実に映像化されている。映像は色彩があるので、モノクロではない魅力に溢れている。色彩のもつ威力がそこにあるね。それと生の声とイメージ。こうの史代さんの姿勢に共感を覚える方は多いのかもしれない。そして鍵は想像力なんですね。
昨夜、「ネットの世界はほとんど右翼の潮流があり、太平洋戦争を肯定する人が実はおおいんですよ。その中でそうした人々でも受け入れられるようなこの漫画や映画は、凄いのですよ」とお聴きした。なるほどに思えた。日本保守主義のような方々が多くなっているという傾向、はたしかにそうなのだろう。「小林よしのりとは対極にいる漫画家ですよ」の発言もあった。小林は一時期かなり沖縄にコミットして『沖縄論』のような漫画を刊行していて読んだ。確か『台湾論』についての漫画もあってあれも読んだ記憶がある。家の書棚にはあるはずだ。昨今は、沖縄との関与はあまりないようでこばやしブームは下火なのかと思っていたら、昨夜名前があがったので、今ネットでみたら、保守派本道を歩いている漫画家だろうか?
小林よしのりの記事一覧
http://blogos.com/blogger/yoshinori_kobayashi/article/←昨今の論評みたいです。
http://blog.livedoor.jp/planet_knsd/archives/30454950.html←沖縄論への批評みたいですね。
小林さんが沖縄に係わったのが今から10年以上前だったのですね。反米日本保守の立場だろうか?
ともかく、昨夜小林と対峙するのが、「こうの史代」だと聞いて、気になった。なるほどでしかしよくわからない。横路にそれてしまった。漫画を今読んだ印象は「わたしはいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」(ジッド)が座右の銘になっているという言葉が単純に「ああいいね」と思え、それは隙間に閉じ込められている人々や周縁化されている人々、あるいはそう思っている多くの人々に勇気をあたえる言葉であるのは確かだと思える。
漫画を読んで、映像にはさらっと描かれていた遊廓の遊女白木リンさんのことがわかったのは良かった。夫になった周作さんと以前かかわりがあった女性として登場する。アニメでは曖昧だった。軍港の呉に遊廓があってもおかしくない。貧しい家庭の娘たちが家族のためにそこに身売りされる時代だったのは、そのとおりだ。リンとすずのかかわりをさりげなく描いた史代さんだ。
何より漫画を読んで一番の印象はモノクロゆえに、日常の普段着の戦争下の生活が伝わってきたのは確かで、そして『居場所』という三字がドスンと残っている。昨夜の方の映画なり漫画批評の中で、北海道にいても居場所がないんだよね、のことばが印象的だったが、つまり「ここにいると、その居場所があるような気がするんだね。あったかいところがある」のような発言と重なるのかもしれない。すずは居場所を求めている。別にすずだけではない。みな居場所を必要としている。生きる拠点である。そこはぐるっと360度回転しても、どこでもだれにとっても今生きている場所、そこが、世界の中軸(中心)になるところなのだ。
居場所という三字はシンプルに見えて、とても生存なり実存の鍵になることばだ、ということが分る。どこに居てもどこにいっても居場所が必要なのだ。そこは家族がいる場所、恋人がいる場所、職場がある場所、故郷であり、都会のど真ん中のアパートかもしれない。「居場所」はいいことばだね。わたしのあなたの居場所、もっともここちよい居場所、安心して、心が、精神が安らぐ場所が必要なんだ。
モノクロの漫画とカラフルなアニメ映像の違いがある。アニメは漫画を越えた創作に違いない。漫画を立体的に見せる新たな創作である。
それにしても史代さんがお母さんの故郷の呉にこだわって描いたこの戦前の戦争をはさんだ物語は、自然体に見えて、普通に生きていくという人生、という事のみならず生きている、生きていく事、生き延びることの奇跡のような人生の物語を共感させてくれる。
その一方でささやかな平穏や幸せを奪っていく対極にある修羅(地獄図絵の世界・戦争)を認めてはいけないのだといえる。いきなり消される生は不条理すぎる。いきなり断ち切られる命は厭だ。シュールとリアルが混淆した世界とはいえ、平安がいいに違いない。