明治25年に壬申座が辻遊郭の幹部急の貸座敷アンマーたちによって立ち上げた時、大田さんはアンマー達の助太刀で頑張ったのですね。
太田さんの養女が長じて女学校を出て池田さんに嫁がれたのですね。有名な戦前の弁護士の池田さんの奥さんになった方ですが、太田さんのお連れ合いの連れ子(お嬢さん)だったのですね。お連れ合いの方と入籍はしていませんね。池田さんのお嬢さんが屋部公子さんですね。
綺麗な女性たちと戦前教育の力で立身出世していった方々がいますね。薩摩在番や寄留商人の落としだねの方々が意外とこの沖縄でまた社会の上層におられたということもあったのですね。祖母が在番のつれあい(外妾)で、という方々がおられてもおかしくない那覇なんですね。
伊波普猷と太田さんとの関係性は深いですね。明治26年から大正8年まで琉球新報の主筆ですから当時の新聞の記事をかなり書かれています。昭和4年に社長、首里市長、そして昭和13年(1938)には逝かれています。
戦争の残酷さを体験されないで逝かれたのです。太田さんは琉球士族の誇りを持った方だったのでしょう。沖縄を背負っているという自負を持っておられて、伊波さんや東恩納寛惇さんたちと向きあっていたのでしょう。
沖縄の近代を見据えていて、太田さんについてふれなければならない瀬戸際です。氏が明治33年に書いた「琉球の遊郭」の論稿は大正8年に『沖縄女性史』を刊行した伊波普猷に与えた影響もあるのでしょう。太田が健在の頃はまだ辻、仲島、渡地があったころですね。明治41年に辻に合併していきます。
太田さんに対しては同化論者や琉球ナショナリストとか、多様な評価がされていますね。2009年に京都大学院生の照屋信治が「沖縄教育における文明化と大和化」の論稿をネットでUPしていますね。柔らかい感性をもっていたのではないでしょうか?ウチナーンチュの気骨をもっていたはずですね。辻のアンマーたちに気に入られた逸材だったのでしょう。