印象批評に留まるが、観た舞台についてはコミットしたい。
従来の「人類館」の演劇とは一味異なった。新しい転換である。
笑いは少なかった。劇場を出て知人と話していた時彼が話した「作品自体が重いし、悲劇ですよね。どこが喜劇?の感じ」もその通りに思えた。「若い人が多かったからかな」も一つの理由かもしれないが、それと「うちなーぐちがわからなかったもあるかな」もそのとおりかもしれない。今まで観た舞台では必ず笑いが起こる場面や台詞があった。それもウチナーグチやウチナーヤマトグチ、共通語とのズレ、とんちんかんな解釈があった。しかしそれとも異なる。観客は構えて熱心に舞台を観ている雰囲気である。
喜劇というよりダークコメディーである。それに喜劇とあえて冠をつける根拠は別にあるようだ。演技や演出が、どこか戯画的というのは、決して写実に陥らないをテーゼとしているようで、全体が作り物のフィクションにしようとする、コンセプトが感じられた。笑い飛ばせなくてじっと舞台に魅入られる舞台、観客に問を発している舞台でもあった。
常日頃、「人類館」はパリで毎日上演されると云う(現在はわからない)、イオネスコの「授業」のように、毎日東京で、大阪で沖縄で上演されてもいい作品だと考えている。毎日でも上演されていいというのは1976年の初演以来変わらない沖縄であり、日本であり、世界の状況がそこにあるということを意味する。それも以前に書いたことだが、この作品を演出してみて、いかに「暴力的」な作品か、ということが強い印象だった。差別は暴力を伴うのである。
それにしても演出の新奇さは、女の演技に特に如実に現れた。男もまたリアリズムを取っ払ったような演技の形を見せた。調教師にしてもサーカスを演じている風体で、芋を食べる場面に机と椅子である。
写実性なりリアルを意図して演技から削除してしまった役者の演技はどうなるのだろうか。どこか嘘っぽく、白々しく、メタシアター的に、沖縄の差別の近現代史を濃縮した舞台は、見世物小屋の中の物語になってしまった風である。それが狙いだったのかもしれない。
終幕のどんでん返しに、女が男たちの築き上げたシステムから逸脱して、小屋を立って見下ろした。男はマントを身につけ、ヤマトンチュのフリをした調教師の真似を始める。それで終わりである。
歴史は繰り返されるのか?芝居小屋の見世物の差別物語は繰り返されるのか?
しかし、沖縄の近現代史の中で、歴史のリアルな側面と残虐さがあったのは事実で、リアルとフィクションなり、ディフォルメできる場面や演技と、観客との一体感に違和感が起こるのも、意図的な異化効果だったのか?
以前、暴力なり差別の中心に天皇が位置すると書いた。そして男たちは循環する暴力装置の中で権力を維持していく。それは変わらない。女の位置づけは変わらないと書いた。女は権力の歯車から弾かれていると結論を出した。しかし今回の演出で、女はずれた存在として立ち現れる。阻害され、差別される存在だが、どこかシステムの歯車から抜けている存在。そこに可能性も曖昧さも残されている雰囲気~。実際は戦場で多くの女や子供が犠牲になる。
演出の佐藤尚子が栃木県出身で、沖縄で育った女性ではないせいか、ウチナーグチの理解はどうなのか、よくわからない。ただ知念正真の娘のあかねが演出に関わっている。二人で話し合い場面のダメだしをしてきたのだろう。また従来たっぷりと、濃ゆいウチナー芸能の味付けが今回かなり淡い味つけになった。
戦場でのレイプシーンでも同じ形態で、やはり戯画化している。ディフォルメである。それで残虐さがマイルドになったかというと、逆に赤子の殺戮場面でものすごい音響効果を出したりしている。
かなり暴力的で、辛辣で、痛い沖縄の近現代史のコラージュのような作品が、ウチナーグチである程度笑えた「人類館」が、逆に笑えなくなったのはなぜか?デフォルメされて、笑えなくなったのか。演出のリアリズムなり写実を超えたコンセプトに、振り回されたのか?
今一度今回の舞台を考えてみたい。今回の舞台の録画があれば是非観たい。
会場の入り口で配布されたパンフをよく読むと、著者知念正真のコンセプトが紹介されている。それを読むと、今回の演出はそれを実体化する創意がなされたことが分かる。【戯曲としての「人類館」は、二つの構造を持っている。人類館を起点として、そこでまき起こる、もしくはまき返される幻想(回想)シーンの、恣意的な、無差別濫乱と、「人類館」という名の精神病院の中で展開する、医者と患者のリハビリテーション(社会復帰訓練)としてのお芝居ごっこである。この両者を、同時並行的に推し進めることによって、沖縄の近(現)代史の暗部が浮き彫りにされ、それらは、やがてひとつの接点を見つけ出す。すなわち世紀末的な終局!幕開きへ向けての際限のないリフレインである。~(以下要約)悲劇の島が客観的に見れば、より喜劇的なのである。より覚めた視点で相対化することによって喜劇たらしめることができる】と書いているが、果たして『人類館』がそれをリアルに表象する作品なのか?という点で、作品そのものが、作者の意図に反して、ダークコメディーにとどまっているというのが、正直な見解だ。
虐殺を喜劇的に描けるか、米兵に殺されるコザの街の娼婦を喜劇的にどう描けるか~。差別の構造を喜劇的に描くことは可能だが~。
例えば大城立裕の「世替りや世替りや」は、「首里城明け渡し」があって成り立つ喜劇である。『人類館』でも覚めた感覚で描かれた場面も笑える場面もあるが、それは深刻な筋書きの中の小さなコミカルリリーフに留まる。しかし今回、最後の場面で笑えた。男の卑小な様が笑えた。「天皇陛下バンジャーイ」の中途半端な万歳の身振りも笑えた。万歳ではなくバンジャーイは、いくばくかの権力への抵抗どころか、大日本帝国の天皇への不遜な身体表象でもありえる。そこは表には出せない腹内での笑いなのかもしれないが~そうした暴力装置へのささやかな抵抗は散りばめられていると見たが~。
どうなのだろう?
金誾愛(キムウネ)さんの以下の論文はいいですね。作品論だけではなく、テキストの変遷、舞台の変遷、観客の動向も見据えた研究が必要です。 ただ金さんが事例として繰り返し出している石垣の高校生のウチナーグチへの感想は、気になった。