杉原千畝という人物
ちょっと長いですが
是非お読みください。
杉原千畝は1900年の1月1日に岐阜で生まれました。
杉原は早稲田大学のときに生活が苦しいために
官費で留学生としてハルビンに行き
日露協会学校でロシア語を学び、
ロシア人宅に寄宿してロシア通となっていきます。
その間には朝鮮へ陸軍志願兵として入隊したこともあります。
その後、満州で外務省書記生や
ハルビンの日露協会学校の講師などもおこない、
外交部事務官としてソ連担当となりました。
ソ連とは北満州鉄道の譲渡交渉を担当し、
当時のお金で4億円以上の値引きをしたとして高い評価を受けました。
その後帰国し、
フィンランドのヘルシンキに赴任となり、
さらにその2年後、
今度はリトアニアのカウナスへ領事代理として転任しました。
このカウナスでの出来事が杉原の人生を変えました。
杉原は日本人もいない、
しかも日本とも一切かかわりのないこのリトアニアで、
ドイツとソ連の情報収集するスパイ任務をさせられていました。
しかしその後、そのリトアニアがソ連のものとなり、
ソ連から日本領事は出て行くよう要求されました。
杉原は急な閉館の準備で忙しくなりました。
当時ナチスは異常なほど、ユダヤ迫害し
ユダヤ人はナチスドイツから逃げまわります。
この時ドイツとソ連の間にポーランドがあり、
両国は共にそのポーランドに侵攻。
そしてドイツとソ連は不可侵条約を結び、
ポーランドはドイツ、リトアニアなどのバルト3国はソ連のものとなります。
そこにはナチスドイツから追われて逃げてきたユダヤ人が多くいました。
リトアニアが中立国だと考えていたユダヤ人ですが、
この地にもナチスドイツが攻めてきそうになりました。
ユダヤ人は生命の危機感を感じて、
次はどこに逃げたらよいかわけがわからなくなっていました。
逃げるところはもうないのです。
絶体絶命のユダヤ人は
ここでこういう話を聞きつけました。
「ドイツに併合されて行き場のないオランダ人が
オランダ領のキュラソー島へならユダヤ人も差別なく行ける」ということです。
ただし、
ユダヤ人がキュラソー島に行くには日本を経由しなければなりません。
キュラソービザと日本ビザが必要となりました。
ユダヤ人は杉原のいる日本領事館に
ビザ発給のお願いに殺到しました。
ユダヤ人は杉原にナチスの恐怖を何度も語り、
そして何とかして日本ビザを発行してくれるように
必死でお願いしました。
迫害されて殺されるのはわかっていましたから。
杉原の心は動きます。
しかし杉原もここから出て行かなければならない。
時間がない。
そしてビザ発行への問題も多い。
問題とは
ここリトアニアの出国許可、
日本の受入れ許可、
その間の通過する国の許可、
その費用など。
現実には不可能に近かった。
詰め寄るユダヤ人に杉原は
「あなた方は極めて同情すべき境遇にあります。
私は自分に与えられた権限や守るべき規定の範囲内で、
できる限りのことをしてあげたい。
しかし、人数があまりに多いので上司の外務大臣の了解を得るから
2,3日待っていて下さい」と言いました。
通過国のソ連はOKがでました。
費用も神戸のユダヤ人協会で何とかなる。
日本のビザ発給だけです。
しかし、外務省の答えはノーでした。
杉原は再度、特例でお願いしたが答えはノーでした。
当時日本はドイツ、イタリアと同盟を結ぶつもりなので、
ユダヤ人の受け入れは公(おおやけ)にできませんでした。
領事館を取り囲むユダヤ人は日増しに増える一方です。
杉原は悩み続け、妻の幸子に
「彼らの望む事をすれば、外務省を辞めさせられるかもしれない。
ドイツ軍にも捕まるかもしれない。君も幼い3人の子供も。それでもいいかな」
幸子は「かまいません」
ついに杉原は外務省の反対を押し切り、
独断でユダヤ人にビザを発給したのです。
自分や家族の身がどうなろうとも。
杉原はビザ発給のために
食事をする時間も、書き過ぎで手が動かなくなってきても、
最後に自分が汽車で出国するそのホームに群がる難民にも
書き続けました。
しかもそのビザ発行は無制限に発行しました。
有効期限が明らかに切れていようが、
偽造パスポートとわかっていても、
全くお金がないユダヤ人にも、
とにかくこのユダヤ人が生きていくために、
すべて発行しました。
ユダヤ人たちはビザは、
杉原が外務省と交渉して許可されたと思っていました。
独断だとは知りませんでした。
そしてユダヤ人難民はシベリアを越え、
ウラジオストックに着きました。
すでにここには外務省から難民ユダヤ人への杉原ビザの
検印捺印は駄目だと命じられていました。
しかし、ここウラジオストックの領事代理として根井がいました。
彼は杉原のハルビンの日露協会学校の同窓生でした。
根井はリトアニアでの杉原のビザ発行を知っていましたので、
外務省命令を無視してユダヤ難民15000人の全てにビザ発給をしました。
そしてついにユダヤ難民は敦賀に着き、神戸に着きました。
日本はこのユダヤ難民を手厚く保護しました。
あれだけ反対していた外務大臣の松岡洋右もユダヤ難民を擁護します。
ヨーロッパのようにユダヤ人に偏見がない日本人に対して
ユダヤ人たちは驚きと感謝でいっぱいでした。
しかしユダヤ難民たちの日本滞在は14日しかありません。
早く次の行き先を見つけなければなりません。
これも外務大臣の便宜で1ヶ月の許可になりました。
ユダヤ人たちは神戸からアメリカ、イスラエル、香港、
さらに日本の支配下の満州や上海へ旅立って行きました。
日本に帰国後、この件で外務省は杉原を退職させました。
外務省は命令違反をした杉原が許せなかったのです
この確執は、後年長く続くのです。
戦後、ユダヤ人たちは恩人である杉原を探し続けました。
実際に見つけるまでには28年かかったそうです。
それは「チウネ・スギハラ」でなく「センポ・スギハラ」
で探していたからでした。
チウネはユダヤ人には発音しにくいのでセンポと呼ばせていたからです。
昭和43年ソ連との貿易の仕事の間に一時日本に帰国していた杉原に
イスラエル大使館から一本の電話がありました。
不信に思った杉原でしたが、
そこで参事官と面会しました。
参事官は「私のことを覚えていますか?」と聞きましたが、
杉原には覚えのない知らない人物だったので
「申し訳ありませんが、」と答えたら、
参事官はボロボロになったビザを取り出し、
自然と溢れてくる涙を拭いもせず、
「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、
私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、
28年間あなたのことを探していました。
やっと会えましたシンポ・スギハラ」
彼こそカウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行った
ユダヤ人だったのです。
翌年、昭和44年に杉原はイスラエルに招待されました。
出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。
彼もカウナスでビザ発給の交渉を杉原とやったあのユダヤ人だった。
生きての再会を喜んだ二人でしたが、
バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになります。
あの杉原ビザの発給が日本政府の許可もなく、
杉原が独断で外務省に逆らって発給したこと、
さらにそれが原因で杉原が外務省を辞職せざるを得なかったことです。
ユダヤ民族の命の恩人として、
永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、
杉原には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
バルハフティックはイスラエルでの
「自らの犠牲を顧みずにユダヤ人を助けてくれた異邦人に贈る」という
「ヤド・バシェム賞」の受賞選考で杉原を推薦し、
杉原は昭和60年にイスラエルから「ヤド・バシェム賞」を贈られました。
その時すでに杉原は病床の身であり、
夫人の幸子に
「私のしたことは外交官として間違っていたかもしれない。
しかし、私は頼ってきた人たちを見殺しにすることはできなかった」
と語ったそうです。
その年の暮れにはイスラエルに杉原の顕彰碑が建てられ、
式典には代理で息子が出席しました。
杉原はその様子を手紙で知らされ、
あるれる涙でいっぱいだったそうです。
スギハラに助けられたユダヤ人は6000人。
その翌年の昭和61年、杉原は86歳という人生を閉じました。
残念なことに日本の外務省は、杉原の死後も長年にわたり
「本省の命令を聞かなかった杉原は首で当りまえ」
というスタンスを崩さなかったのです。
しかし、1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務政務次官(当時)が
幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、
杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、
併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪しました。
ただこのときも、外務省内部にはこの謝罪を反対した根の深い敵意がありました。
そしてそれからも長い年月を費やし
本政府による公式の名誉回復が行われたのは、
21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだったのです。
当時の外務大臣河野洋平による演説です
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、
色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、
外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。
日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、
人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。
故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において
人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。
私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
死の前年、杉原はこう語ったと言います。
「あなたは私の動機を知りたいという。
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。
避難民には老人も女もいた。
当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、
内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。
彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。 しかし、私自身これが正しいことだと考えた。 多くの人の命を救って、何が悪いのか。 人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、 私は困難な状況にあえて立ち向かっていった。」
ちょっと長いですが
是非お読みください。
杉原千畝は1900年の1月1日に岐阜で生まれました。
杉原は早稲田大学のときに生活が苦しいために
官費で留学生としてハルビンに行き
日露協会学校でロシア語を学び、
ロシア人宅に寄宿してロシア通となっていきます。
その間には朝鮮へ陸軍志願兵として入隊したこともあります。
その後、満州で外務省書記生や
ハルビンの日露協会学校の講師などもおこない、
外交部事務官としてソ連担当となりました。
ソ連とは北満州鉄道の譲渡交渉を担当し、
当時のお金で4億円以上の値引きをしたとして高い評価を受けました。
その後帰国し、
フィンランドのヘルシンキに赴任となり、
さらにその2年後、
今度はリトアニアのカウナスへ領事代理として転任しました。
このカウナスでの出来事が杉原の人生を変えました。
杉原は日本人もいない、
しかも日本とも一切かかわりのないこのリトアニアで、
ドイツとソ連の情報収集するスパイ任務をさせられていました。
しかしその後、そのリトアニアがソ連のものとなり、
ソ連から日本領事は出て行くよう要求されました。
杉原は急な閉館の準備で忙しくなりました。
当時ナチスは異常なほど、ユダヤ迫害し
ユダヤ人はナチスドイツから逃げまわります。
この時ドイツとソ連の間にポーランドがあり、
両国は共にそのポーランドに侵攻。
そしてドイツとソ連は不可侵条約を結び、
ポーランドはドイツ、リトアニアなどのバルト3国はソ連のものとなります。
そこにはナチスドイツから追われて逃げてきたユダヤ人が多くいました。
リトアニアが中立国だと考えていたユダヤ人ですが、
この地にもナチスドイツが攻めてきそうになりました。
ユダヤ人は生命の危機感を感じて、
次はどこに逃げたらよいかわけがわからなくなっていました。
逃げるところはもうないのです。
絶体絶命のユダヤ人は
ここでこういう話を聞きつけました。
「ドイツに併合されて行き場のないオランダ人が
オランダ領のキュラソー島へならユダヤ人も差別なく行ける」ということです。
ただし、
ユダヤ人がキュラソー島に行くには日本を経由しなければなりません。
キュラソービザと日本ビザが必要となりました。
ユダヤ人は杉原のいる日本領事館に
ビザ発給のお願いに殺到しました。
ユダヤ人は杉原にナチスの恐怖を何度も語り、
そして何とかして日本ビザを発行してくれるように
必死でお願いしました。
迫害されて殺されるのはわかっていましたから。
杉原の心は動きます。
しかし杉原もここから出て行かなければならない。
時間がない。
そしてビザ発行への問題も多い。
問題とは
ここリトアニアの出国許可、
日本の受入れ許可、
その間の通過する国の許可、
その費用など。
現実には不可能に近かった。
詰め寄るユダヤ人に杉原は
「あなた方は極めて同情すべき境遇にあります。
私は自分に与えられた権限や守るべき規定の範囲内で、
できる限りのことをしてあげたい。
しかし、人数があまりに多いので上司の外務大臣の了解を得るから
2,3日待っていて下さい」と言いました。
通過国のソ連はOKがでました。
費用も神戸のユダヤ人協会で何とかなる。
日本のビザ発給だけです。
しかし、外務省の答えはノーでした。
杉原は再度、特例でお願いしたが答えはノーでした。
当時日本はドイツ、イタリアと同盟を結ぶつもりなので、
ユダヤ人の受け入れは公(おおやけ)にできませんでした。
領事館を取り囲むユダヤ人は日増しに増える一方です。
杉原は悩み続け、妻の幸子に
「彼らの望む事をすれば、外務省を辞めさせられるかもしれない。
ドイツ軍にも捕まるかもしれない。君も幼い3人の子供も。それでもいいかな」
幸子は「かまいません」
ついに杉原は外務省の反対を押し切り、
独断でユダヤ人にビザを発給したのです。
自分や家族の身がどうなろうとも。
杉原はビザ発給のために
食事をする時間も、書き過ぎで手が動かなくなってきても、
最後に自分が汽車で出国するそのホームに群がる難民にも
書き続けました。
しかもそのビザ発行は無制限に発行しました。
有効期限が明らかに切れていようが、
偽造パスポートとわかっていても、
全くお金がないユダヤ人にも、
とにかくこのユダヤ人が生きていくために、
すべて発行しました。
ユダヤ人たちはビザは、
杉原が外務省と交渉して許可されたと思っていました。
独断だとは知りませんでした。
そしてユダヤ人難民はシベリアを越え、
ウラジオストックに着きました。
すでにここには外務省から難民ユダヤ人への杉原ビザの
検印捺印は駄目だと命じられていました。
しかし、ここウラジオストックの領事代理として根井がいました。
彼は杉原のハルビンの日露協会学校の同窓生でした。
根井はリトアニアでの杉原のビザ発行を知っていましたので、
外務省命令を無視してユダヤ難民15000人の全てにビザ発給をしました。
そしてついにユダヤ難民は敦賀に着き、神戸に着きました。
日本はこのユダヤ難民を手厚く保護しました。
あれだけ反対していた外務大臣の松岡洋右もユダヤ難民を擁護します。
ヨーロッパのようにユダヤ人に偏見がない日本人に対して
ユダヤ人たちは驚きと感謝でいっぱいでした。
しかしユダヤ難民たちの日本滞在は14日しかありません。
早く次の行き先を見つけなければなりません。
これも外務大臣の便宜で1ヶ月の許可になりました。
ユダヤ人たちは神戸からアメリカ、イスラエル、香港、
さらに日本の支配下の満州や上海へ旅立って行きました。
日本に帰国後、この件で外務省は杉原を退職させました。
外務省は命令違反をした杉原が許せなかったのです
この確執は、後年長く続くのです。
戦後、ユダヤ人たちは恩人である杉原を探し続けました。
実際に見つけるまでには28年かかったそうです。
それは「チウネ・スギハラ」でなく「センポ・スギハラ」
で探していたからでした。
チウネはユダヤ人には発音しにくいのでセンポと呼ばせていたからです。
昭和43年ソ連との貿易の仕事の間に一時日本に帰国していた杉原に
イスラエル大使館から一本の電話がありました。
不信に思った杉原でしたが、
そこで参事官と面会しました。
参事官は「私のことを覚えていますか?」と聞きましたが、
杉原には覚えのない知らない人物だったので
「申し訳ありませんが、」と答えたら、
参事官はボロボロになったビザを取り出し、
自然と溢れてくる涙を拭いもせず、
「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、
私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、
28年間あなたのことを探していました。
やっと会えましたシンポ・スギハラ」
彼こそカウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行った
ユダヤ人だったのです。
翌年、昭和44年に杉原はイスラエルに招待されました。
出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。
彼もカウナスでビザ発給の交渉を杉原とやったあのユダヤ人だった。
生きての再会を喜んだ二人でしたが、
バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになります。
あの杉原ビザの発給が日本政府の許可もなく、
杉原が独断で外務省に逆らって発給したこと、
さらにそれが原因で杉原が外務省を辞職せざるを得なかったことです。
ユダヤ民族の命の恩人として、
永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、
杉原には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
バルハフティックはイスラエルでの
「自らの犠牲を顧みずにユダヤ人を助けてくれた異邦人に贈る」という
「ヤド・バシェム賞」の受賞選考で杉原を推薦し、
杉原は昭和60年にイスラエルから「ヤド・バシェム賞」を贈られました。
その時すでに杉原は病床の身であり、
夫人の幸子に
「私のしたことは外交官として間違っていたかもしれない。
しかし、私は頼ってきた人たちを見殺しにすることはできなかった」
と語ったそうです。
その年の暮れにはイスラエルに杉原の顕彰碑が建てられ、
式典には代理で息子が出席しました。
杉原はその様子を手紙で知らされ、
あるれる涙でいっぱいだったそうです。
スギハラに助けられたユダヤ人は6000人。
その翌年の昭和61年、杉原は86歳という人生を閉じました。
残念なことに日本の外務省は、杉原の死後も長年にわたり
「本省の命令を聞かなかった杉原は首で当りまえ」
というスタンスを崩さなかったのです。
しかし、1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務政務次官(当時)が
幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、
杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、
併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪しました。
ただこのときも、外務省内部にはこの謝罪を反対した根の深い敵意がありました。
そしてそれからも長い年月を費やし
本政府による公式の名誉回復が行われたのは、
21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだったのです。
当時の外務大臣河野洋平による演説です
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、
色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、
外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。
日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、
人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。
故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において
人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。
私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。
死の前年、杉原はこう語ったと言います。
「あなたは私の動機を知りたいという。
それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。
目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。
避難民には老人も女もいた。
当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。
軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、
内務省の役人はただ興奮しているだけだった。
本国の関係者の意見は一致していなかった。
彼らとやり合うのは馬鹿げていると思った。
だから、返答を待つのはやめようと決心した。
いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。 しかし、私自身これが正しいことだと考えた。 多くの人の命を救って、何が悪いのか。 人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、 私は困難な状況にあえて立ち向かっていった。」
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