たのしい夢日記

京都奈良寺社巡り・思い出・読んだ本…日々のあれこれを写真と共に。

30年。

2015-08-16 17:52:20 | 現実
昔よく本を買った、札幌弘栄堂書店のブックカバー。とても懐かしい。このカバーのファンは多いそうだ。昔から変わっていない。

30年前から変わっていない、と言いたいところだが、調べてみると40年変わっていないそうだ。

1年ぶりに帰省して、私が実家を出てから約30年になると気付いた。それから札幌で5年暮らしてオーストラリア、そんなに経ったんだなあ…




ピアノを手放そうかと父と話しているので、さてふたを開けて弾いてみると意外に音は変ではない。私の腕は変だからたどたどしい音だけれど、調律すればまだ使えそうだ。メジャーなメーカーではないので、買い取りは難しいそうだけれどごみになるのももったいない気がする。50年物でもOKという所もあるようだ。

ちょっと一人の時間が出来たので、昔一人暮らしをしていた札幌のアパート付近まで行ってみた。

さすがに30年近く経つと記憶も曖昧だし、周りの景色も変わっているので手さぐり(足さぐりか)で「なんとなくこの道の曲がり具合は?」と不確かながら歩いてみる。

一か所、これは変わっていないのでは?と思われる場所があり、それを目印にしようと思っていた。

道路にはみ出していた木だ。

関西でもよく見るけれど、なぜか切られずに道路が迂回している木があるものだ。何か謂れがあったりするのだろうが、私の住んでいた通りにもあって、車は面倒だろうな、と思っていたのだ。

大きい通りからこのあたりを右に曲がるんだったと思ったけど…



「あった!」

思わず声が出た。30年経ったら伸びてもいるんだろうけど、その頃からかなり立派な大きな木だった。やはり切られずに残っている。この木から少し歩いたところにアパートがあったのだが、その頃から考えても相当古いアパートだったので、むろん違う建物、やはりアパートだ。

そして気が付いた事。

私、道幅のスケールが関西標準になっているんだ…

目印の木は、道路の真ん中くらいまで来ているように思っていたのだがそうではなかった。
思ったより、道路は広かったのだ。

関西なら、こういう、大通りから一歩入った、という道路は歩道もなく狭い。車なら1台がやっと。そこをびゅんびゅん走る。

この通りも、私が住んでいた頃は「歩道もなく狭い通り」と思っていたのに、今歩いてみると結構な幅がある事に気付く。

ぶらぶらと辺りを歩いても、やはり、大通りでない通りでも両側に歩道があったりして、物凄く広い気がする。そして、車はめったに通らないのだ。



実家の庭に父の育てているクレマチスはあったけれど、30年前、いや10年前でもこの、釣鐘型のものはなかった。昔は、薔薇が垣根の様になっていた場所だ。



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