のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

“年の瀬に改めて心に刻んだこと” (この秋逝去されたお二人の足跡をテレビで見て) 

2014-12-31 20:06:16 | 日記

 今朝のNHKテレビで、昨日に続いて、「耳をすませば」という番組が放映された。

                         

 

 この番組は、今年のうちに亡くなられた方を2人ずつ取り上げて、彼らの歩まれた足跡を追いながら、彼らの思い・願いを明らかにし、それを私たちが

どう受け止めるべきかを、考えようというものだ。

 今朝の番組で取り上げられたのは、経済学者の宇沢弘文氏と、俳優の菅原文太さんだった。

                      

 

 


 

 先ずは宇沢弘文氏だが、恥ずかしながら私は、この番組を見るまで、彼のことを全く知らなかった。

 宇沢氏は、その生涯を通して、人間のための経済学のあり方を追求され、この秋86歳で他界された。

                        

 

 

 彼は、数理経済学の権威で、早くからその才能は世界的に認められ、36歳のときにはシカゴ大学の教授として招かれた。

                       

 

                    

 そこで、順調に研究生活をされていた宇沢氏だが、ベトナム戦争の勃発と同時に、経済学のあり方に疑問を感じられるようになった。

                    

 

 当時の経済学者の中には、ベトナム戦争を肯定し戦争に協力する経済学者が現われ始めたからだ。

 大学の同僚のフリードマンは、「お金を儲けるためには何をやってもいい!法を犯さない限り。」と言い、更に「倫理的・社会的・文化的・人間的な価値

は無視してもいい!」とも言った。

 宇沢氏は強い怒りを感じ、43年にアメリカの大学の職を辞して帰国された。

 

 しかし宇沢氏を待っていた日本の状況も、これまた酷いものだった。

 大都市の道路を埋め尽くす自動車の洪水・大気汚染・水俣病‥。

        

 

 そして更に問題なのは、日本の経済学が、その日本の現状を認めてしまっていることだった。

 (下は、水俣病の被害者の写真と、その展示を見つめる宇沢氏)

        

 

 宇沢氏は、新しい経済学を求めて模索される。

 そして彼の結論は‥

    「社会的共通資本である“環境” “医療” “教育” “福祉” “農業”などは、≪市場≫にゆだねてはならない!

    ≪権力≫に奪われてはならない!」というものだった。

 その思想は、ローマ法王(パウロ2世)の「世界に発する通達」にも盛り込まれ、世界に影響を与えた。

 それは、『環境や資源を守りながら経済活動を行う、持続可能な社会の実現をめざす』というものだ。

 

 宇沢氏は、次のように言われる。

  「“地球温暖化”に象徴される現代の状況は、≪まやかしの豊かさ≫を追った20世紀文明の当然の帰結であり、20世紀文明は正に崩壊過程に

  入っている。これからは、どのようにして人間らしい社会を、文化・経済を含めて築いていくか?この問題が、私たちの前に大きく提示されている。」

                    

 

 宇沢氏は終世、≪人を幸せにする経済学≫を求めて模索を続けられ、「東日本大震災」のことを気に掛けながら、病を得、亡くなられた。

 

 ≪人を幸せにする経済学≫‥‥『アベノミクス』は果たしてそう呼べるだろうか?

 否、断じて否!

 アベノミクスが声高に叫ばれる今、私たちは、宇沢氏の追求されてきた、真に人を幸せにする経済の実現を目指していかなければ!と強く思う。

 

 


 

 

 菅原文太さんは、かねてより私も、とてもステキな方だと思っていた。 

 なので彼の突然の訃報には、驚きとともに深い悲しみを感じた。 

 でも、私はこの番組を見るまで、菅原文太さんの人生の歩み方について、ほとんど知らなかったことを思い知らされた。

 

 若いころの彼は、俳優として歌手として成功を収めた。

        

 

 番組では彼のことを、「たった一人で権力や組織と闘う男を演じ、≪媚びない・群れない・属さない男≫として、不動の人気を得た。」と評していた。

 歌手としても成功!(右上の写真は、ヒット曲『吹き溜まりの詩』を歌う菅原氏。 私はこの歌を改めて聴いて、やっぱりステキな歌だと思った。)

 

 その後、山田太一の『獅子の時代』や『自由民権運動の足跡を伝えるドキュメンタリー』に出演することを通して、彼は人間としての幅や深みを更に

増していかれる。

 そして、60歳を過ぎた頃から彼は、地方で暮らす人々の生活に目を向け始め、各地を行脚されるようになる。

                       

 

 そして、自身でも完全無農薬の有機農業を始められた。

                        

 

 

 そんな彼に大きなショックを与えたのが、2011年の東日本大震災だ。

 彼は、東日本大震災の後は完全に俳優をやめて、≪脱原発や平和の活動≫に邁進されるようになる。

                  

                        

 

 

 彼は淡々と言われる。

  「命というものが、羽毛のように軽んじられていることを黙視することはできないから、国とか行政にも、これからそういうことを語りかけることをやら

  なきゃいけないのかと、思ったりしている。」

 そして彼はそれを、死ぬまでコツコツと積み上げられたのだ。

 

 2014年11月1日の沖縄。 

 そこで彼は聴衆を前に、トツトツと優しく、しかし力強く、語りかけられた。

                     

 

  “沖縄の風土も 本土の風土も 海も山も 空気も風も すべて 国家のものではありません。

   そこに住んでいる人のものです。

   大切なのは、国民を飢えさせないこと 安全な食べ物を食べさせること。

   そしてもう一つ、これが最も大事です! 絶対に戦争をしないこと!”

 

 私はこの言葉を聞きながら、思わず涙を禁じ得なかった。

 この後間もなくして、彼は静かにこの世に別れを告げられた。

 最後に、はにかむように自らの思いを語られる彼の写真を載せます。

                     

                    

 

 


 

 

 2014年。 

 この年は残念ながら、現政権が戦争のできる国に向けて大きく舵を切った、記念すべき年になってしまった。

 でも国民の多くは、それを望んではいない。

 

 そして、上に挙げたお二人の、“命と平和の大切さ”を最期まで語り続けられた、勇気ある行動と言葉!

 「逆風の中だけれど、私たちは決して諦めてはならない!」 お二人の行動と言葉を画面で見て、そう強く心に刻んだ年の瀬でした。