ちょっと話が前後しますが、『翁』の大夫をはじめ各役の装束や、囃子方・後見・地謡が着る「烏帽子・素袍」について。
『翁』に限って囃子方や地謡も威儀を正して、普段とは別の服装=素袍=を着ます。素袍は麻の地に染めで文様をほどこした装束で、直垂とよく似て、それよりも少し格が低い装束。江戸時代には武士の礼服で、裃よりも上位の服装です。従って、地謡や囃子方も含めて、能舞台に登場する人物が着る服装の順位はこういった感じになります(男性の服装に限る)
直衣 > 狩衣 > 直垂 > 素袍 > 長裃 > 半裃 > 紋付袴
直衣と狩衣は主に貴人役の装束で、両者はほとんど同じ格を持つ装束だと思いますが、それでも微妙に直衣の方が位が重いように感じます。能装束の狩衣には「単衣」と「袷」があり、『翁』の大夫が着る「翁狩衣」は「袷狩衣」の一種ですが、蜀江文様という独特の文様を織り出した『翁』専用の装束です。
今回の研能会では、今年が先代の師匠の十七回忌追善の年にあたるため『翁』には「法会之式」の小書がつきました(「法会之式」が追善の意味で上演されるのは本来は正しくないのですが、まあこれは上演する側の気持ちの問題でしょう)。ぬえの師匠は今回は茶地に銀の蜀江文様の「翁狩衣」を着用されましたが、当初、装束蔵から白地の「翁狩衣」を出してくるよう指示されたのです。じつはこの日に大夫が下に穿いていた指貫は白地に紺の八つ藤文様のもので、この取り合わせを見た ぬえは「ははあ、師匠は追善の意味を込めて 白式の装束に統一されるおつもりなんだな。。」と、すぐに気づきました。
「白式」の『翁』は金春流などで真っ白な装束で勤めておられる写真を何度か拝見したことがありますが、観世流では見たことがありません。師家の装束蔵にも、本当の意味の「白式」~つまり文様は申し訳程度で、真っ白の無地のように見える装束~の「翁狩衣」はありません。だから今回も本当の意味では「白式」とは呼べないのですが、この『翁』を父親に捧げるつもりで大夫が選んだ、「白式の心」の装束ということになるでしょう。
ところが装束蔵から出されたこの白地の「翁狩衣」を同じく白地の指貫と組み合わせてみると。。どうも取り合わせが悪かったのです。白地が「付き」過ぎちゃう。そこで茶地に銀蜀江の今回の「翁狩衣」に変更されました。舞台の強い照明の下では、銀が勝っているこの「翁狩衣」は必ずや茶地ではなく白地に見えるはずで、案の定、終演後しばらく経ってからどこかで見た能評に、「白地の狩衣に。。」と記されていました。
ちなみにこの白地の指貫は、なんと梅若研能会の初会。。昭和3年に催された研能会の第1回公演に、いまの師匠の祖父・初世 梅若万三郎によって演じられた『翁』のために、当時新調された装束なのです。この指貫が納められている畳紙には装束の名称のほかには、隅の方にひっそりと「昭和三年一月」と書かれてあるのみなのですが、それこそが研能会の初会のあった時なのです。かつて書生時代の ぬえは、戦前の師家の本拠地である「高輪能楽堂」について調査をしたことがありまして、この指貫の来歴はそのときに知ったのです。
もっとも当時はまだ「研能会」という会の名称はなく、実際にこの指貫を使って『翁』が演じられたのは、「高輪舞台披キ」、つまり高輪能楽堂の「こけら落とし」の催しでした。その後この舞台を使っての催しが月例化して、後日 この舞台披キの日に遡って「研能会」と命名された、というわけです。いずれにしても79年前に作られた記念の装束が現代に蘇ったわけですが、この指貫がお蔵から出されてきたときに ぬえは師匠に「これは。。高輪の舞台披キのときの装束ですね」と申し上げたけれど、師匠は「え?そうなの?とおっしゃって、来歴はご存じありませんでした。。やはり昔の事って、しっかり記録しておかなきゃいけないね。
『翁』に限って囃子方や地謡も威儀を正して、普段とは別の服装=素袍=を着ます。素袍は麻の地に染めで文様をほどこした装束で、直垂とよく似て、それよりも少し格が低い装束。江戸時代には武士の礼服で、裃よりも上位の服装です。従って、地謡や囃子方も含めて、能舞台に登場する人物が着る服装の順位はこういった感じになります(男性の服装に限る)
直衣 > 狩衣 > 直垂 > 素袍 > 長裃 > 半裃 > 紋付袴
直衣と狩衣は主に貴人役の装束で、両者はほとんど同じ格を持つ装束だと思いますが、それでも微妙に直衣の方が位が重いように感じます。能装束の狩衣には「単衣」と「袷」があり、『翁』の大夫が着る「翁狩衣」は「袷狩衣」の一種ですが、蜀江文様という独特の文様を織り出した『翁』専用の装束です。
今回の研能会では、今年が先代の師匠の十七回忌追善の年にあたるため『翁』には「法会之式」の小書がつきました(「法会之式」が追善の意味で上演されるのは本来は正しくないのですが、まあこれは上演する側の気持ちの問題でしょう)。ぬえの師匠は今回は茶地に銀の蜀江文様の「翁狩衣」を着用されましたが、当初、装束蔵から白地の「翁狩衣」を出してくるよう指示されたのです。じつはこの日に大夫が下に穿いていた指貫は白地に紺の八つ藤文様のもので、この取り合わせを見た ぬえは「ははあ、師匠は追善の意味を込めて 白式の装束に統一されるおつもりなんだな。。」と、すぐに気づきました。
「白式」の『翁』は金春流などで真っ白な装束で勤めておられる写真を何度か拝見したことがありますが、観世流では見たことがありません。師家の装束蔵にも、本当の意味の「白式」~つまり文様は申し訳程度で、真っ白の無地のように見える装束~の「翁狩衣」はありません。だから今回も本当の意味では「白式」とは呼べないのですが、この『翁』を父親に捧げるつもりで大夫が選んだ、「白式の心」の装束ということになるでしょう。
ところが装束蔵から出されたこの白地の「翁狩衣」を同じく白地の指貫と組み合わせてみると。。どうも取り合わせが悪かったのです。白地が「付き」過ぎちゃう。そこで茶地に銀蜀江の今回の「翁狩衣」に変更されました。舞台の強い照明の下では、銀が勝っているこの「翁狩衣」は必ずや茶地ではなく白地に見えるはずで、案の定、終演後しばらく経ってからどこかで見た能評に、「白地の狩衣に。。」と記されていました。
ちなみにこの白地の指貫は、なんと梅若研能会の初会。。昭和3年に催された研能会の第1回公演に、いまの師匠の祖父・初世 梅若万三郎によって演じられた『翁』のために、当時新調された装束なのです。この指貫が納められている畳紙には装束の名称のほかには、隅の方にひっそりと「昭和三年一月」と書かれてあるのみなのですが、それこそが研能会の初会のあった時なのです。かつて書生時代の ぬえは、戦前の師家の本拠地である「高輪能楽堂」について調査をしたことがありまして、この指貫の来歴はそのときに知ったのです。
もっとも当時はまだ「研能会」という会の名称はなく、実際にこの指貫を使って『翁』が演じられたのは、「高輪舞台披キ」、つまり高輪能楽堂の「こけら落とし」の催しでした。その後この舞台を使っての催しが月例化して、後日 この舞台披キの日に遡って「研能会」と命名された、というわけです。いずれにしても79年前に作られた記念の装束が現代に蘇ったわけですが、この指貫がお蔵から出されてきたときに ぬえは師匠に「これは。。高輪の舞台披キのときの装束ですね」と申し上げたけれど、師匠は「え?そうなの?とおっしゃって、来歴はご存じありませんでした。。やはり昔の事って、しっかり記録しておかなきゃいけないね。