ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その8)

2010-07-01 23:57:11 | 能楽
シテは「なうなう」と扇を片手で拡げてワキの方へ招く型をし、あと問答につれて徐々に舞台に近づきます。

ワキ「これは山田矢橋の渡し舟にてもなし。渡りの船の御用ならば。よそをお尋ね候へ。
シテ「我も旅人にあらざれば。渡りの舟とも申さばこそ。その御舟へ物申さう。
ワキ「さてこの舟をば何舟と御覧ぜられて候ぞ。
シテ「その人買ひ舟の事ざうよ。
ワキ「あゝ音高し何と何と。
シテ「道理々々。よそにも人や白波の。音高しとは道理なり。ひとかひと申しつるは。その舟漕ぐ櫂の事ざうよ。
ワキツレ「艪には唐艪といふこそあれ。人買ひと云ふ櫂はなきに。
シテ「水の煙の霞をば。一霞二霞。一汐二汐なんどといへば。今漕ぎ初むる舟なれば。一櫂舟とは僻事か。
ワキ「げに面白くも述べられたり。さてさて何の用やらん。


秀句にこと寄せて船出を遅らせ、その暇に舟に近づく居士。もうすでに駆け引きは始まっています。「人買い舟」と突然呼ばわって動揺させ、さてワキが怒り出すと それは櫂のことを言ったまで、とはぐらかし、ワキツレがそのような名の櫂はないと気色ばむと、漕ぎ始めた舟を「ひと櫂舟」と呼んだ、というのです。どちらかというとワキツレはシテに対して敵意をむきだしにしますが、ワキはもうひとつ肝の据わった男のようです。おそらくワキは、この少女の代金でもあった小袖を首に掛けたシテの姿を見、「人買い舟」と呼ばわったのを聞いて、シテが少女を取り返しに来たことはすぐに見抜いたことでしょうね。

なおここに出てくる「僻事」は「ひがこと」と能では読んでいますが、「道理に合わないこと」という意味です。『自然居士』ではこの語は幾度となく登場してきます。

シテ「これは自然居士と申す説経者にて候が。説法の場覚まされ申す。恨み申しに来たりたり。
ワキツレ「説法には道理を述べ給ふ。我等に僻事なきものを。
シテ「御僻事とも申さばこそとにかくに。元の小袖は参らする。


ここでシテは、首に掛けていた縫箔を はらりと外すと、ワキの方へ投げつけます。うまくワキの前にバサリと落ちると非常に効果的なのですが、その前に、右手に扇、左手に数珠を持ったままで上手に縫箔を首からはずして投げつけるのは結構難しい。

シテ「舟に離れて叶はじと。裳裾を波に浸しつゝ。舟ばたに取りつき引きとゞむ。

とうとうシテは琵琶湖の岸に半ば足を濡らして踏み込むと、舟のへりを つかんで航行不能にします。これに対してワキは暴力を試みますが、シテが僧体であるため仏罰を恐れ、八つ当たりに少女を打ち据えます。このときワキは右手で腰より扇を抜き出して持ち、左手に持った棹を叩くことで打擲を表現します。

ワキ「あら腹立やさりながら。衣に恐れてえは打たず。これも汝が科ぞとて。艪櫂を持つて頻りに打つ。
シテ「打たれて声の出でざるは。若し空しくやなりつらん。
ワキ「何しに空しくなるべきぞと。
シテ「引き立て見れば。
ワキ「身には縄。
地謡「口には綿の轡をはめ。泣けども声が。出でばこそ。


少女が息絶えているのではないかと危惧したシテは舟に乗り込み、子方を立たせてこれを見ます。少女は縄で縛られ、口には轡をはめられている、という痛々しい姿でした。

シテは小声で少女に救出を約束します。

シテ「あら不憫の者や。やがて連れて帰らうずるぞ心安く思ひ候へ。