右手に扇、左手に数珠を持って舞う…簡単なようですけれども意外に難しいのですよ、これ。と言っても難しいのは、舞の中で扇を左手に持ち替え、また今度は逆手に右手に持つ型があることです。
右手の扇を左手に持ち替えるときには、それと同時に左手の数珠を空いた右手に持ち替え、また反対に左手の扇を逆手になるように右手に持つときは、今度は数珠を再び左手に持ち直すのです。単純なようですが、初めてこの型を稽古をしたときは あれ? あれ? という感じでした。数珠が反対側の手に渡らない… どういうことかと言うと、普通に数珠を持っているとき、というのは、親指以外の四本の指にで数珠を握っています。数珠をそのように握ったまま扇を指先で取ると…親指と人差し指(と中指も)で輪ができてしまって、その輪の中にある数珠を反対側の手に渡すことができなくなってしまうのです。
ですから、扇を左手に取る際は、まず左手で握っている数珠を、四本指で握るのではなく、親指・人差し指の二本、あるいは中指を入れて三本の指を解放して、薬指・小指だけで数珠を握り、さて右手の扇を、解放した三本の指を使って左手に取り、それと同時に左手の薬指・小指だけで握った数珠を右手で受け取るわけです。三本の指を解放するために数珠を持ち直すのは目立つ行動ですから、扇を扱っているとき…お客さまの目が扇に引きつけられている間に、目立たぬように数珠を持ち直す必要もあります。こういうところは演者が目立たぬ苦心をしているところでしょうかね。
…それにしても右手に扇、左手に数珠を持っているというのは不便なものです。舞の中によらず、『自然居士』を稽古していると、片手でいろんな物を一緒に持っている事が多いなあ、と感じました。たとえば最初に子方が持参した諷誦文が書かれた文を読む場面。この文は間狂言から受け取るのですが、そのときは数珠を持ったままの左手で受け取ります。それから扇を持ったままの右手で文を支えて、数珠を持ったままの左手で折ってある文をひと折ずつ拡げてゆき、さて扇を持った右手、数珠を持った左手で開いた文を持って、さてその文面を読むわけです。ワキから烏帽子を受け取るときも、扇や数珠を持ったままの両手で受け取るのです。なんだかいろんな物を一緒に持っている曲ですね~
さて舞台に戻って、中之舞を舞い終えると、観世流ではすぐにクリ・サシ・クセと、舟の起源を語る舞になるのですが、これは少々唐突なように思います。中之舞と、このクリ・サシ・クセは全然別の種類の話題と考えるべきで、しかもシテはワキの計略によって 嫌々ながら芸を披露しなければならない、という立場です。乞われてもいないのに、中之舞に引き続いてさらに自分から進んで舟の起源についての仕方語りをするのは、ちょっと理屈に合わないように思います。
…と思ったら、シテ方の流儀によってはこの中之舞とクリ・サシ・クセとの間に、重ねて舞を所望するワキの言葉が入り、シテもそれに応えて舟の起源を語ることを提案するくだりがあるのです。
ワキ「あまりに舞が短かうて見足らず候は如何に
シテ「さあらば舟の起こりを語って聞かせ申し候べし
この文句があった方が、話の流れがスムーズではありますね。さてこれより舟の起源についての物語が始まります。
シテ「そもそも舟の起を尋ぬるに。みなかみ黄帝の御宇より事起つて。
地謡「流れ貨狄が謀より出でたり。
右手の扇を左手に持ち替えるときには、それと同時に左手の数珠を空いた右手に持ち替え、また反対に左手の扇を逆手になるように右手に持つときは、今度は数珠を再び左手に持ち直すのです。単純なようですが、初めてこの型を稽古をしたときは あれ? あれ? という感じでした。数珠が反対側の手に渡らない… どういうことかと言うと、普通に数珠を持っているとき、というのは、親指以外の四本の指にで数珠を握っています。数珠をそのように握ったまま扇を指先で取ると…親指と人差し指(と中指も)で輪ができてしまって、その輪の中にある数珠を反対側の手に渡すことができなくなってしまうのです。
ですから、扇を左手に取る際は、まず左手で握っている数珠を、四本指で握るのではなく、親指・人差し指の二本、あるいは中指を入れて三本の指を解放して、薬指・小指だけで数珠を握り、さて右手の扇を、解放した三本の指を使って左手に取り、それと同時に左手の薬指・小指だけで握った数珠を右手で受け取るわけです。三本の指を解放するために数珠を持ち直すのは目立つ行動ですから、扇を扱っているとき…お客さまの目が扇に引きつけられている間に、目立たぬように数珠を持ち直す必要もあります。こういうところは演者が目立たぬ苦心をしているところでしょうかね。
…それにしても右手に扇、左手に数珠を持っているというのは不便なものです。舞の中によらず、『自然居士』を稽古していると、片手でいろんな物を一緒に持っている事が多いなあ、と感じました。たとえば最初に子方が持参した諷誦文が書かれた文を読む場面。この文は間狂言から受け取るのですが、そのときは数珠を持ったままの左手で受け取ります。それから扇を持ったままの右手で文を支えて、数珠を持ったままの左手で折ってある文をひと折ずつ拡げてゆき、さて扇を持った右手、数珠を持った左手で開いた文を持って、さてその文面を読むわけです。ワキから烏帽子を受け取るときも、扇や数珠を持ったままの両手で受け取るのです。なんだかいろんな物を一緒に持っている曲ですね~
さて舞台に戻って、中之舞を舞い終えると、観世流ではすぐにクリ・サシ・クセと、舟の起源を語る舞になるのですが、これは少々唐突なように思います。中之舞と、このクリ・サシ・クセは全然別の種類の話題と考えるべきで、しかもシテはワキの計略によって 嫌々ながら芸を披露しなければならない、という立場です。乞われてもいないのに、中之舞に引き続いてさらに自分から進んで舟の起源についての仕方語りをするのは、ちょっと理屈に合わないように思います。
…と思ったら、シテ方の流儀によってはこの中之舞とクリ・サシ・クセとの間に、重ねて舞を所望するワキの言葉が入り、シテもそれに応えて舟の起源を語ることを提案するくだりがあるのです。
ワキ「あまりに舞が短かうて見足らず候は如何に
シテ「さあらば舟の起こりを語って聞かせ申し候べし
この文句があった方が、話の流れがスムーズではありますね。さてこれより舟の起源についての物語が始まります。
シテ「そもそも舟の起を尋ぬるに。みなかみ黄帝の御宇より事起つて。
地謡「流れ貨狄が謀より出でたり。